ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

道を歩きながら歌って生き方を考える

道路を歩いている時に前からこちらに向かって歩いてくる人とぶつからないように避けて歩く、ということが難しいと思っていた。前の人がいつ私に気づくのか、どちらによけるのか、私はどちらに行けば良いのか、ということを考えているうちに、どんどん前の人との距離が縮まって、右か左によけようとすると、相手がよけようとする方向にかぶってしまうということが多いからだ。あなたは右ですか、じゃあ私は左に…とサッとかろやかに向きを変えようとすると、相手も同じように向きを変えようとして、気が合うわね私たち、と勝手に気まずくなってしまう。

昔、聞いていた嘉門達夫の歌を思い出すよね。

「自転車」 嘉門達夫 1991

自転車で商店街 走っているとぉ

オレの真向かいからオバハンやってくる

オバハンも自転車に乗っている

オレと一直線上 こっちに向かってる

このままいったら ぶつかるな

けど オレがよけるのシャクだし

オバハン 右によけるかな

けど ちょっと左にかたむいとんな

ホナしゃーない オレが右によけてやろう

コラコラ オバハン

おんなじ方向によけて どないすんねんな

ホンならオレは左に コラコラ

オバハン まねすんな

あーぶつかる! アラ オバハン自転車おりたー

 

この気まずい思いと嘉門達夫の歌とともに、長年過ごしてきたのだけれども、ついに先日、この問題を解決する方法に気づいた。

相手を見るからどっちによけるか、相手の考えと行動を読もうとして失敗するのだ。ということは、相手を見なければいい。

試してみると、私が相手を見ていないので相手が私の動き(まっすぐ歩く)を理解して、どちらかによけてくれる。私もぶつかりたくないので、一応相手の足を見ているけれども、顔を見てはいないので相手が私がよける気がないことを読み取る方が早い。自分は全く方向を変える必要がないし、相手の意図を読み取ろうとしなくていいのはなんと楽ちん、なんと快適。相手の動きを読み取ることに失敗していたことの解決策は、相手を見ないことだったのか!

・・・しかし、これで本当に良いのか?

こちらが相手のことを気にしないことによって、相手がこちらを気にして行動を変える=こちらのやりたいこと(まっすぐ歩く)を通して相手が行動を変える(こちらをよける)。こういう人いたなと思い出した。自分のやりたいようにやってやりたくないことを全くやらず、最終的には周りがその人の行動を汲んで動かざるを得ないという状況。その人は、グループの中で一緒に仕事をしていくことは全然重視していないようだったので当然なのだろうけれど、そうすると、周りの負担が増えてしまうので困ってしまっていた。私自身は自分はしたいように過ごすという希望はありつつ、周りの人の考えや評判も気になるしどうせなら楽しくやっていきたいという中途半端なスタンス。身勝手な人だなと思いつつも、その自由さにはむしろ尊敬を覚えるところもあった。

相手を見ないで自分はまっすぐ歩いて相手からよけてもらったあの感覚は、あの人のグループでの振る舞いの感覚と似ているのだろうか。楽ちんで、快適。相手にどう思われるかとかを気にしなければ、自分のしたいことはしやすくなる。でも、相手を全く見ないで、自分のしたいことだ!と下向いてスマホばかり見て歩いているのもどうなのだろう、という思いもある。目の前にいる相手と目が合ってちょっと気まずくなりながら道を譲り合うという交流もあっていいのかな。それをゼロにしてしまいたい余裕のなさが問題? 

 

道の歩き方について、中島みゆきが素晴らしく歌ってくれていた。

スクランブル交差点の渡り方」 中島みゆき 2012

人と違う方へ出ようとするから

人とぶつかるばかりだったんです

人の後ろにつけばいいんだと知りました

スクランブル交差点では渡り方にコツがいる

 たくさんの人の中で、立ち向かうよりも流れに乗った方が楽なんだと悟ってしまった歌。