ある日、森の中

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死産後のこと10:「元気そうで良かった」と言われることについて

強烈な別れと悲しみを経験して、それでも終日泣き続けるのは3週間ほどでおさまり、2ヶ月の産後休業、1ヶ月の休み、復職して4ヶ月、新年度に入って仕事が去年までとほぼ同じペースに戻る期間を2ヶ月弱過ごしてきた。年度が変わったので、事情を知っている人と知らない人が混じることになった。子どもや若者を相手にすることが多いので、どよーんとしたまま彼らの前に出るわけにもいかず、結構元気な感じで過ごしていることが多くなった。復職直後は仕事も少なかったので、職場でもふと気が緩むと突然感情が決壊して泣いてしまうことがあったけれど、半年も経つとだんだんとコントロールする感覚が身についてきて、集中したり、雑談したり、冗談言ったりしながら過ごしている。死産直後には自分が家族以外とまた笑っているなんて想像もできなかったし、復職直後は前のようなテンションで仕事するなんて絶対無理だと思っていたけれど、時間というのは本当にゆっくり癒していく。そして同時に、仕事や他のことに没頭しているのは、元気に産まれてこられなかった私たちの赤ちゃんを忘れてしまうということではないのだということもわかった。

 

少しずつ復活してきたのは良かった、と思っている。

 

ただ、一方で、「元気そうで良かった」「復活してきたね」と言われることも増えてきた。増えてきた、というか、今のところ私の周りではある一人の上司だけなのだけど。この上司は人について、本当のところどうなんだろうとか、頑張りすぎじゃない?とかを推測できる人ではないのはわかっているので、私が以前と同じペースで仕事をして、笑っていたらそう思うだろうなとは想像できる。それでも、つい、私の方でも「別に人から言われるほど元気じゃないし」と思ってしまう(思うだけでなく、「いやいや、元気な感じにしてないとやってらんないんす」くらいは返す)。

元気になっていこうとは思っているし、実際に楽しいこともあるし、我が子を理由に人から心配されるばかりなのも落ち着かないと思っているのに、人からいざ「元気そうだネ」と言われると、ものすごく違和感があった。なぜか。

きっとこれは、「人から勝手に何かを押しつけられる」ことの違和感だ。だから、逆に、すごく可哀想がられてもたぶん違和感を感じるのではないかと思う。

 

私が死産を報告したとき、これまで4人から「自分も同じ経験がある」という答えがあった。

今考えてみると、この4人の人たちは誰も、「同じ経験をしたから、あなたの気持ちはすごくよくわかる」とは言わなかった(報告した瞬間、勢いで「わかる!」と言われたことはあったけれど、気持ちがわかるというよりは、死産という経験を私もしたよ、というニュアンスだった)。その代わり、皆さんがそれぞれに、自分はこんな感じだったよ…と話をしてくれた。その話は全部、死産という同じ名前の現象だけれど、それぞれ違う体験だった。経験した時期も、実は去年…という人から、もう40年前のことだという人までバラバラだったので、今の受け止め方・考え方・語り方も違うように感じた。

4人の話を聞いた時の私の感覚は不思議だった。4人の話は私の仲間になったり、今後の道しるべになったりした。話そのものはその人の領域から出ていないのにも関わらず、私に触れるか触れないかぐらいの距離で私を守るように包んでくれた(と言ってはロマンチックで大袈裟かもしれないけれど)、そんな感じだ。

 

一方で、「元気そうで良かった」という言葉は、その人自身の領域を越えて、「元気そう」と私を形容することで私の領域に入ってきてしまっている感じがする。私が自他共に認める元気をもっていたら問題ないのだろうけれど、自と他にズレがあるから違和感があるし、そんなに元気でもないので押しつけられていると感じているのだろう。

亡くなっていることがわかって入院した初日、「あなたの気持ちがわかる」と声をかけてくれた看護師さんに、嬉しいような違うような気持ちがしたのも、領域を越えすぎだったからなのかな、と今は思う。悲しいのと訳わからんのほんの始まりの地点にいた私にとって、「あなたの気持ちがわかる」はちょっと入り込みすぎていた。

上司も看護師さんも、気にかけてくれているのはわかって感謝もしているのだけど、心配することと心配を伝えることは別物なのだろうと思う。

私自身が、死産も含め人の悲しみに出会った時、どう接することができるのか、考えさせられる。

 

 

 

本当は、この現象に名前をつけようと思って書き始めたのに、全然違うことになってしまった。