ある日、森の中

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『十四番目の月』を読んだ:子育てを支えるもののことを考えた。

『十四番目の月』(海月ルイ文藝春秋)を読んだ。

十四番目の月 (文春文庫)

十四番目の月 (文春文庫)

 

 

どんな話かも全く知らず、作者についても何も知らない(今も)。ただ、市立図書館に行ったら、今月の特集が「夜」で、そこに並べられていた何冊かの中で一番表紙がきれいだったので借りてみた。

関係ないけど図書館の特集コーナーはいい。自分で本を選ぶといつも同じ作者・同じ系統のものを選んでしまうから、ときどきこうして図書館の人たちが作ってくれたコーナーから適当に借りていくと、全然知らない本を読める。自分の好みに合わないこともあるけれど、今回みたいに読み始めたら一気に読み進んでしまう本に出会えることもある。

 

タイトルや装丁のイメージと違って、読み始めたらミステリー小説だった。最後に作者の経歴を読んだら、ミステリー大賞を受賞している人だった。

 

最初の事件がテンポよく進むのに引き込まれて、そのあとは、人や環境(店とか家の中とか)が丁寧に描写されているのをイメージしながら読むのが面白かった。どんな人や場所なのか外見を描写でイメージできて、内面や気持ちを感じ取れる小説が好きだ。

 

ここには、いろいろな「お母さん」が出てくる。そして、立場は違えど、ちょっと足りないとか、不全感とか、子どもへの罪悪感とか、何かしら十分でない感覚をみんな持っている(樹奈は自覚しているかわからないけれど)。話の中で起きる事件も事故も出会いも、みんな、その「あともう少し」の感覚に関連していたと思う。奈津子は幼い我が子を夜遅くまでベビーホテルに預けること、早苗は息子がかつていじめられていたこと、梓は自分の身体機能のこと。皆、一生懸命やっているのに不全感(梓は完全に喪失感)が拭えないというのが流れているように感じた。それがタイトルである『十四番目の月』=満月にあと1日満たない月、にも表れている。

現実的には、たぶん、どのお母さん(保護者)も「あともう少し」と思い悩みながら子育てをしているのではないだろうか。

 

話の中では父親の存在感が全くなく、なんなら母親を傷つける立場としてしか出てこなかったけれども、お母さんの不全感を極端に表現した結果だろう。本当なら、頑張っても頑張ってもどこか不全感を抱えてしまうお母さんに対して「大丈夫だよ」と言ってくれる仲間であってほしい。

 

「子を想う母」がメインのテーマだったのかなと思うけれど、私としては、子どもを支援し、親をサポートする立場である保育士が、親子を傷つける対象として描かれているのが興味深かった。父親や家族以外でお母さんの「あともう少し」を埋めてあげられるのは、外部の人というか、多くは保育・教育・福祉といった子どもに関わる専門家なんだよなぁ、と思う。専門家がもっている知識や現実的なサポートが「あともう少し」を埋めていく。愛情とか気合いとか根性ではない。受容や共感は大事だけれど、これ自体は専門家側のスキルに基づく態度なので知識や現実的サポートに含まれると思う。

反対に言えば、子育てをする人たちに「あともう少し」という思いを強めるのも外部の人だと思う。世間体みたいな目に見えないものから、身近な人たちの言葉まで。だから、「もっと愛情をもって接してあげて」「気合いが足りない」のような、知識や現実的サポートを生まないアドバイスは役に立たないどころか害になる。

小説は、保育士の知識もサポートが全くない、ていうか全然仕事してないということが事件につながっていて、こんな保育士いてくれるなと心の底から思うけれど、ここまでいかなくても保育士等の子ども支援者の言動1つ1つに保護者が追い詰められたり励まされたりすることはあると思うので、専門性を保つことは、母親(保護者)の「あともう少し」を埋めるものだよなと改めて思った。そして、そのためには支援者側の組織の体制が整っていることは必須。

 

保育士や教師の育成や研修に関わることがあるので、専門性が担保されるように仕事していかなくては、と改めて思う。

 

同時に、自分自身が死産を経て、元気に産むことができなかったとか、これから子どもを産めるのかなとか、そういう「あともう少し」を抱える身となったので、これから出会うかもしれない医療等専門職の皆様には、なんとか支えていただきたい。