ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

死産や出産に意味づけはしなくていいと思った件

 「自分の死産には何か意味があったのだろうか」

 「意味があったと思いたい」

という意見を聞いた。

流産、死産でしんどい、でもこの悲しみを乗り越えることに意味があると思えたら・・・という苦しさのぎりぎりの中での考えだったと思う。言葉そのものがその人の悲しさや前を向こうとする踏ん張りを示していた。

あの時のあの苦しい経験を乗り越えたから今の自分がある、ということを耳にすることはある。つらい現状がのちの自分の糧になっているはずだと考え方を切り替えることは、ストレスに対する認知的アプローチになるのだと思う。

 

さて、自分はどうだろう、と考えてみると、

「自分の経験した死産に意味などいらない」

という結論に至った。死産だけでなく出産にも妊娠にも、それ自体に意味はないのではないか、と今のところは思っている。

 

仕事柄、親や子どもの援助に関わる機会が多い。そのため、復職した時、「そういう(死産という)経験をして気持ちがわかってくれる人がいると、親御さんも良いのではないか」と言ってくれる人がいた。そのときはそうかなぁーと思ったけれど、時間が経つにつれ、違和感が大きくなった。私がお腹の子を亡くした意味はそんなところになくていいと思った。

どんな対人援助職者でも被援助者本人と同じ経験をすることはできないし、する必要もないと思う。同じ経験をしていなくても、相手を理解しようとしたり、必要なサポートを提供したりすることは可能なはず、というか、可能にしなくてはならないと思う。特に、対象が「気持ち」の場合、相手の気持ちを理解する・共感するという日常的にも行われることなので、ある経験をしていると相手を理解しやすい=仕事しやすい、と思われるのかもしれないけれど、日常的なことと仕事として行うこととは区別する必要があると思う。経験者同士が理解し合うのはピアサポート・ピアグループが活躍する分野だ。援助者・被援助者として援助を行うなら、援助の仕方は体系立てて知識として理解しておくべきだし、経験者でないとわからない、という状態であるなら知見が足りないということなのだろう。

もし仮に、この死産を機に私がものすごく人の痛みがわかるプロフェッショナルになったとしても、それは単に結果であって、死産があったことで(おかげで)意義ある成長をしたなどとは思いたくもなく、そんな成長いらないんでなんとか生きて産まれてきてくれた方が良かったです、と言いたい。

 

逆に出産についても、「私たちを選んで産まれてきてくれた」的な意味づけもきっと違うのだろうなと思う。親子であることが重視されすぎて、自分が頑張らねばと思いすぎてしまう育児の大きな負担や、リスクの高い親を離せないことによる虐待といった悲しい出来事を見聞きすることはあるけれど、親子という近い距離だからこそ起こることでもあると思うので、周囲からは勝手に意味を与えたりしないで、淡々と客観的に判断していった方が助けになることもある。周囲にできることは、本人の話を聞くこと、選択肢を増やすこと、支援体制を整えること、だろうか。

だいたい、「選んで産まれてくる」のであれば妊娠途中で亡くなってしまったのは何なのか、ということを考えてしまう。選ぶのやめたってこと?! そんなバカな。

 

とはいえ、本人が意味を感じることは自由だし素晴らしいことだと思う。例えば、親本人が「この子の親となれて良かった。私の人生に意味が生まれた」と思うことや、子ども本人が「この親の子どもで良かった」と思うこと。死産についても、経験した本人が意味を見出すことは意義あることだと思う。私自身ももしかしたら20年くらいたったらそのように考えるようになるかもしれない。

(ただ、それを相手(親子間であっても)に押しつけてしまったり第三者から言われたりすると期待や不安や悲しみが大きくなりすぎて苦しくなるかもしれない)

 

ということで、今は、意味なんてないな、と思うことの方が救われる。