ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

『ナナメの夕暮れ』を読んだ:自分の自意識過剰のこと

若林正恭『ナナメの夕暮れ』(文藝春秋)を読んだ。

 

オードリー・若林の存在は知っていたけれど、エッセイが面白いらしい、という誰かのコメントを読んで、『社会人大学人見知り学部卒業見込』、『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』と続けて3冊読んでみた。確かに面白い。芸能人のエッセイというのを初めて読んだので、テレビで好きで見ている芸能人の日常が面白いということと、『表参道』はただの旅行記ではなかったことやもう会えない人に想いを馳せた言葉に引き込まれた。『ナナメの夕暮れ』は『社会人大学』の続き(継続していた連載エッセイ)ではあったけれど、『社会人大学』の頃ほど斜に構えていられなくなった(大人・おっさんになった)自分のことを書いていて、自意識過剰な自分を赤裸々に吐露するだけでなく、そんな自分を少し冷静に引いたところから見られるようになったことまで書くなんて、すごいなーと思った。しかもそれが文筆業だけで暮らしている人ではなく、(芸や台詞で作り込んでいるとはいえ)テレビで姿を晒している人だ。

「こんなこと言ってしまったけど皆に何と思われているのか、そういうのはいらないですよとか思われてる気がする」と、仕事をしながら“みんな”や“評価”にビクビクしつつ、いまだにビクビクしてるのもどうなのと堂々巡りをしている三十代後半には勇気が出る。

 

書き下ろし部分の「ナナメの殺し方」が面白かった。

  • 自分の好きなものを見つける、書き出す、好きであることを肯定する。
  • 自分の尊敬する人について肯定する。
  • 自分の周囲の人について肯定する。
  • 世界を肯定する。

 グランデという人を否定するのをやめれば、自分がグランデと言っても否定してくる人がこの世からいなくなる。

 否定してくる人がいない世界なら、朝気持ちよく起きることも全然可能なのだ。  (p157)

 

これを読んで、以前、早朝にウォーキングをしようと思った時のことを思い出した。

ちょうど良い公園などがなかったので、住んでいる地域の住宅街を歩くしかなかったのだけど、ウォーキングなんてしているのを、このジャージを、寝起きに近いすっぴんと髪の毛を、変に思われないだろうか、という不安に襲われた。冷静に考えれば誰も私のことは見ていないのだけど、これが自意識過剰というやつだ。

それで、私は、普段外出時にしている眼鏡をかけないで歩くことにした。眼鏡なしだと道や車はわかるけれど、すれ違う人の表情などははっきり見えない。不思議なことに、周りの人がはっきり見えなければ、自分のことが見られているという感じがなくなり、自分が歩くことだけに集中できるようになった。

多分、他の人を見ているから、周りからも見られているような気になってしまう。意識はしていないけれど、もしかしたら私は、人を見ているだけでなく、何かしらの判断もしているのかもしれない。「走ってるけど遅いな」とか「派手なジャージだな」とか。そんな判断が、自分がウォーキングするときにすれ違う人々から投げかけられている気がしていたので、まずは自分が周りを見ない、ということには効果があったのだと思う。周りを見ない、なんて独りよがりな感じだけれど、この場合、現実的に人を見ないことは、自分の中で人から向けられると思い込んでいる批判を見ない、という形を作り出していた。すでに始まっていた独りよがりを止めるための方法が、現実的に人を見ないという謎なスタイルになった。

でもこうして自分が歩くことそのものに集中できると、他に歩いている人を好意的に見ることができたし、走っている人など尊敬できた。派手なジャージは問題ではないことがわかった。

自意識過剰をのさばらせないためには、集中(エッセイでは「没頭」を挙げている)と客観視(自分で判断しすぎない)なのだと思う。

 

・・・これを書きながらも「『ナナメの夕暮れ』と全然関係ないことを書いていると思われるんじゃないか」という不安がむくむくと湧き上がる。大丈夫、これは私が文章を書く練習の場なのだと書くことに集中し、今月のページビュー数はずっとゼロだからそもそも何かを思う奴自体がいないと客観視を自分に促す。

人を気にする不安は、結局、自分の中にある。