ある日、森の中

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『親の「死体」と生きる若者たち』を読んだ:きょうだいの配偶者の私

タイトルと表紙が印象的だった。

親の「死体」と生きる若者たち

親の「死体」と生きる若者たち

 

 

50代のひきこもりの人と、80代のその親が、社会的に援助を受けられないまま孤立、困窮してしまうという「8050問題」について、新聞記事などからの実態や、著者が実際に支援で関わった人たちとの出来事、当事者の人たちから著者に宛てられた手紙などで構成されている。

読みながら、「えええ、何言ってるの?!」と驚かされたり、つい叱咤激励したくなる気持ちになったり、いやでもそんなことしても意味ないだろうなと引っ込めたり、「なんでその展開?」と想像しきれなかったり・・・気持ちが忙しくなる本だった。

 

「家にこもる」ということ自体は日常的な経験として私にもある。ただ、私は外に出るための活力を得る、という選択肢として「家にこもることができる」のだけど、ここに描かれていたのは、「家にこもらざるを得ない」人たちだ。どんなことも一択になってしまうとしんどい。その選択そのものに加えて、「それしか自分にはないんだ」ということに追い詰められるのだと思う。

 

私たちが今生きている社会には「そうせざるをえなかった人たち」が生きています。

だからこそ、そうせざるをえなかったことに対する理解が必要なのです。

私たちは今、そんな時代を生きているのです。 (p208)

 

これは、他人事ではない。夫のきょうだいがまさに社会生活から孤立した状態で、親と暮らしているからだ。

年齢は「8050」よりはもう少しまだ若いけれど、なかなかの膠着状態で動きが見えない。期間的には、20年にはならないかな…というくらいで、だいぶ長い。住んでいる場所が新幹線を使うくらいには離れているので、直接会うことは多くないけれど、年末年始などで会う時には、時間の流れてなさを感じる。夫の両親も親の会に参加するなどされているけれど、なかなか思うようにはいかないようで、横から話を聞くだけの私は、難しいんだな、と思っている。

当事者の会、親の会、そしてどうやら、きょうだいの会、というのもあって状況を共有したり助言したりするみたいなのだけど、「きょうだいの配偶者」ってどうなんでしょう。原家族と同じレベルでなんとかしようと動く余裕はないし、多分その必要もないのだろうと思っている。力になれるところはなりたいけれど、家族丸抱えは、行政や福祉や医療の手が届かない人たちの現在の結果である「8050問題」を増幅させ続けるだけになってしまう。かと言って、何もしないでうまくいくことでもない。でも、今のところはなんとか生活が回っているので、現実味を帯びていないように感じる。私自身は、夫から話は聞いているし状況もなんとなく知っていて、不安があるけど、何を心配すればいいのか正直よくわからない。

ということで、私の「きょうだいの配偶者」としての結論は、サポートの上限を決めておくこと、でも一時的に金が必要になれば出せるようにしておくこと、夫がもし(一時的に)実家に行かなければならない事態になっても良いように私が仕事に就くこと、なのだけどどうだろうか。(子どもがいたら状況が変わるかも)

 

それにしてもこの表紙、手前に親(の死体)が寝ているのだろうなぁ…と想像させる空白に迫力がある。

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