ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

ジムに行き始めた。運動は嫌いだけど応援されると嬉しい。

ジムに行き始めた。私の中では革命だ。

小学校の頃からマラソン大会では学年でビリから3番目、スキーに行けば転んだ記憶しかなく(小学生ながらにスキーは最初で最後だと思い今も貫いている)、中学校では何故かバレーボール部に入ったものの殆どマネージャー業をして過ごし、クロールが前に進まず下に沈んでいくばかりで憂鬱だった水泳は高校のプールが工事中だったので万歳三唱、その後は運動とは縁のない生活を送っている。たまに思い立ってウォーキングしてみたりするけれど、雨が降ったらその日で終わり。

でも、快便のためには運動が必要と鍼で助言され、お金払えば続くかもと思って、えいやとジムに入会した。筋トレだったら運動神経関係ないし。

とにかく10年くらい前に買ったジャージを着て行ってみると、筋骨隆々としたお兄さんが「フオウ!! アァー!!」とか言いながら重そうなバーベルを持ち上げているし、お腹と足が綺麗な曲線美のお姉さんがセクシーにストレッチしているしで、間違えたーと後悔した。後日、私くらいの中肉中背なおじさんおばさんも見つけて安心したけれど、おばさんがなんかものすごい筋トレしていたので、油断できない。

あっという間に一人では無理だと思って、単発のパーソナル・トレーナーを申し込んだ。

なんとかインストラクターとかなんとかトレーナーというたくさんの資格をもっている逞しいトレーナーさんは、「便秘解消」を第一目標に掲げている運動したくない奴の話を丁寧に聞いてくれた。マシンの使い方、意識する筋肉、イメージすべきこと等々を超早口で話しながら、私にとってちょうど良い負荷を教えてくれた。「あーもう無理ぃ」と思うとすぐにそれを察して「あと3回いきましょう!」「できましたね!」と応援された。

 

・・・という経験をして思ったのが、個別に自分に合わせてくれる存在というのは心地良い、ということ。「応援される」というのは嬉しい。自分も仕事柄、個別に人の相談に乗るということはよくやってきたけれど、鍼で体の調子を相談し、ジムで運動の仕方を相談するということをしてみて、改めて実感した。自分のために個別に専門の人との時間をとるということは重要だ。自分のやっていることは目標に適っているのかなーという不安が軽減されるし、みんなあんなムキムキですごいなーという周りを気にしてしまう雑念をちょっと減らせる。「応援される」っていうことも貴重だった。何事も自分で頑張れたら誇らしいけれど、そうもいかないことだって多い。ギリギリのところを汲み取ってもらえる心地よさよ! 

一方で、それには安くない費用がかかっている。本当は最初からパーソナルトレーニングのジムに行きたかったけど、回数多く行こうと思うと本当にお高くなるので断念した。今のジムはほどほどの月会費で、単発・有料でトレーナーを依頼できる。1時間数千円を高いと思うか安いと思うかは個人による。この前、駅で見かけた美容ホワイトニングの歯科(デンタルクリニック)のキラキラした看板に、「完全個室!」という案内と万単位の値段が書いてあったのはたまげた。個別対応の価値は人それぞれだから値段もいろいろになる。

私は、大人になって自由に使えるお金が多少増えて、自分のためにお金を払って人に自分が必要なもののオーダーを組んでもらえるって幸せなことだなと感じている。

 

お金を使うこと自体にすぐ「勿体ない!」と思ってしまうけれど、この「個別に相談できる心地よさ」は結構人生を豊かにしてくれる気がしたので、大事にしたい。というか、現状、DINKSまっしぐらなので、自分のためにお金と時間を使わないと!

 

ということでジム継続と体力向上を頑張ります。

お腹痛い

1ヶ月くらい腹痛が続いている。

痛いときも痛くないときもあるし、ご飯を食べた後に痛いこともあるし痛くないこともあるし、便秘っぽいときもあるし(といっても長くて2日くらい)、その後には全部出る。割と確実なのは、ご飯を食べた直後に横になると気持ち悪くなったり少し吐いたりすることだ。胃がうまく働いていない気がする。

この1年、妹の夫が大腸がん、大学の同期が乳がんになるということが続けて起こり、血縁関係は全くない人たちなので私に影響することはないとわかっていても同世代が続けてがん発症という衝撃は大きく、たぶん死産後からの情緒不安定も手伝って、何か物凄く悪い病気なのではないかという不安が高まって胃腸科を受診したところ、レントゲンを撮られ、

「ここ一帯がうんこ、これとこれがガス。うんことガスが溜まりすぎ。腸を動かすのが下手ってことね」

と言われた。私にはレントゲン写真は判別できなかった。胃に関しては、腸がうまく動いていない影響だと言われ、漢方薬と薬を2つ出された。一つは胃炎に対する薬、もうひとつは整腸作用とあったけれどネットで見たら神経症における抑うつ・不安を和らげると書いてあった。昔から緊張するとお腹をこわす自分としてはまあ同じようなもの。

 

その日はもともと鍼も予約日だったので鍼でも相談した。 

鍼灸師が私のお腹をペコペコ押さえて、

「これはガスだな…これもガス…これは便かな」

と腹の中のうんことおならの存在を確認された。鍼灸師ってすごい。腸に効く鍼を追加してもらった。

しかし、鍼に行った直後は調子がいいけれども、結局そのあとはやっぱり痛かったり痛くなかったり。首肩の痛みが鍼で良くなってきたと思ったら、今度は腹痛が続く。

死産後の影響なのか。それとも別の何かなのか。

今日もお腹痛い。

死産や出産に意味づけはしなくていいと思った件

 「自分の死産には何か意味があったのだろうか」

 「意味があったと思いたい」

という意見を聞いた。

流産、死産でしんどい、でもこの悲しみを乗り越えることに意味があると思えたら・・・という苦しさのぎりぎりの中での考えだったと思う。言葉そのものがその人の悲しさや前を向こうとする踏ん張りを示していた。

あの時のあの苦しい経験を乗り越えたから今の自分がある、ということを耳にすることはある。つらい現状がのちの自分の糧になっているはずだと考え方を切り替えることは、ストレスに対する認知的アプローチになるのだと思う。

 

さて、自分はどうだろう、と考えてみると、

「自分の経験した死産に意味などいらない」

という結論に至った。死産だけでなく出産にも妊娠にも、それ自体に意味はないのではないか、と今のところは思っている。

 

仕事柄、親や子どもの援助に関わる機会が多い。そのため、復職した時、「そういう(死産という)経験をして気持ちがわかってくれる人がいると、親御さんも良いのではないか」と言ってくれる人がいた。そのときはそうかなぁーと思ったけれど、時間が経つにつれ、違和感が大きくなった。私がお腹の子を亡くした意味はそんなところになくていいと思った。

どんな対人援助職者でも被援助者本人と同じ経験をすることはできないし、する必要もないと思う。同じ経験をしていなくても、相手を理解しようとしたり、必要なサポートを提供したりすることは可能なはず、というか、可能にしなくてはならないと思う。特に、対象が「気持ち」の場合、相手の気持ちを理解する・共感するという日常的にも行われることなので、ある経験をしていると相手を理解しやすい=仕事しやすい、と思われるのかもしれないけれど、日常的なことと仕事として行うこととは区別する必要があると思う。経験者同士が理解し合うのはピアサポート・ピアグループが活躍する分野だ。援助者・被援助者として援助を行うなら、援助の仕方は体系立てて知識として理解しておくべきだし、経験者でないとわからない、という状態であるなら知見が足りないということなのだろう。

もし仮に、この死産を機に私がものすごく人の痛みがわかるプロフェッショナルになったとしても、それは単に結果であって、死産があったことで(おかげで)意義ある成長をしたなどとは思いたくもなく、そんな成長いらないんでなんとか生きて産まれてきてくれた方が良かったです、と言いたい。

 

逆に出産についても、「私たちを選んで産まれてきてくれた」的な意味づけもきっと違うのだろうなと思う。親子であることが重視されすぎて、自分が頑張らねばと思いすぎてしまう育児の大きな負担や、リスクの高い親を離せないことによる虐待といった悲しい出来事を見聞きすることはあるけれど、親子という近い距離だからこそ起こることでもあると思うので、周囲からは勝手に意味を与えたりしないで、淡々と客観的に判断していった方が助けになることもある。周囲にできることは、本人の話を聞くこと、選択肢を増やすこと、支援体制を整えること、だろうか。

だいたい、「選んで産まれてくる」のであれば妊娠途中で亡くなってしまったのは何なのか、ということを考えてしまう。選ぶのやめたってこと?! そんなバカな。

 

とはいえ、本人が意味を感じることは自由だし素晴らしいことだと思う。例えば、親本人が「この子の親となれて良かった。私の人生に意味が生まれた」と思うことや、子ども本人が「この親の子どもで良かった」と思うこと。死産についても、経験した本人が意味を見出すことは意義あることだと思う。私自身ももしかしたら20年くらいたったらそのように考えるようになるかもしれない。

(ただ、それを相手(親子間であっても)に押しつけてしまったり第三者から言われたりすると期待や不安や悲しみが大きくなりすぎて苦しくなるかもしれない)

 

ということで、今は、意味なんてないな、と思うことの方が救われる。

『十四番目の月』を読んだ:子育てを支えるもののことを考えた。

『十四番目の月』(海月ルイ文藝春秋)を読んだ。

十四番目の月 (文春文庫)

十四番目の月 (文春文庫)

 

 

どんな話かも全く知らず、作者についても何も知らない(今も)。ただ、市立図書館に行ったら、今月の特集が「夜」で、そこに並べられていた何冊かの中で一番表紙がきれいだったので借りてみた。

関係ないけど図書館の特集コーナーはいい。自分で本を選ぶといつも同じ作者・同じ系統のものを選んでしまうから、ときどきこうして図書館の人たちが作ってくれたコーナーから適当に借りていくと、全然知らない本を読める。自分の好みに合わないこともあるけれど、今回みたいに読み始めたら一気に読み進んでしまう本に出会えることもある。

 

タイトルや装丁のイメージと違って、読み始めたらミステリー小説だった。最後に作者の経歴を読んだら、ミステリー大賞を受賞している人だった。

 

最初の事件がテンポよく進むのに引き込まれて、そのあとは、人や環境(店とか家の中とか)が丁寧に描写されているのをイメージしながら読むのが面白かった。どんな人や場所なのか外見を描写でイメージできて、内面や気持ちを感じ取れる小説が好きだ。

 

ここには、いろいろな「お母さん」が出てくる。そして、立場は違えど、ちょっと足りないとか、不全感とか、子どもへの罪悪感とか、何かしら十分でない感覚をみんな持っている(樹奈は自覚しているかわからないけれど)。話の中で起きる事件も事故も出会いも、みんな、その「あともう少し」の感覚に関連していたと思う。奈津子は幼い我が子を夜遅くまでベビーホテルに預けること、早苗は息子がかつていじめられていたこと、梓は自分の身体機能のこと。皆、一生懸命やっているのに不全感(梓は完全に喪失感)が拭えないというのが流れているように感じた。それがタイトルである『十四番目の月』=満月にあと1日満たない月、にも表れている。

現実的には、たぶん、どのお母さん(保護者)も「あともう少し」と思い悩みながら子育てをしているのではないだろうか。

 

話の中では父親の存在感が全くなく、なんなら母親を傷つける立場としてしか出てこなかったけれども、お母さんの不全感を極端に表現した結果だろう。本当なら、頑張っても頑張ってもどこか不全感を抱えてしまうお母さんに対して「大丈夫だよ」と言ってくれる仲間であってほしい。

 

「子を想う母」がメインのテーマだったのかなと思うけれど、私としては、子どもを支援し、親をサポートする立場である保育士が、親子を傷つける対象として描かれているのが興味深かった。父親や家族以外でお母さんの「あともう少し」を埋めてあげられるのは、外部の人というか、多くは保育・教育・福祉といった子どもに関わる専門家なんだよなぁ、と思う。専門家がもっている知識や現実的なサポートが「あともう少し」を埋めていく。愛情とか気合いとか根性ではない。受容や共感は大事だけれど、これ自体は専門家側のスキルに基づく態度なので知識や現実的サポートに含まれると思う。

反対に言えば、子育てをする人たちに「あともう少し」という思いを強めるのも外部の人だと思う。世間体みたいな目に見えないものから、身近な人たちの言葉まで。だから、「もっと愛情をもって接してあげて」「気合いが足りない」のような、知識や現実的サポートを生まないアドバイスは役に立たないどころか害になる。

小説は、保育士の知識もサポートが全くない、ていうか全然仕事してないということが事件につながっていて、こんな保育士いてくれるなと心の底から思うけれど、ここまでいかなくても保育士等の子ども支援者の言動1つ1つに保護者が追い詰められたり励まされたりすることはあると思うので、専門性を保つことは、母親(保護者)の「あともう少し」を埋めるものだよなと改めて思った。そして、そのためには支援者側の組織の体制が整っていることは必須。

 

保育士や教師の育成や研修に関わることがあるので、専門性が担保されるように仕事していかなくては、と改めて思う。

 

同時に、自分自身が死産を経て、元気に産むことができなかったとか、これから子どもを産めるのかなとか、そういう「あともう少し」を抱える身となったので、これから出会うかもしれない医療等専門職の皆様には、なんとか支えていただきたい。

『ナナメの夕暮れ』を読んだ:自分の自意識過剰のこと

若林正恭『ナナメの夕暮れ』(文藝春秋)を読んだ。

 

オードリー・若林の存在は知っていたけれど、エッセイが面白いらしい、という誰かのコメントを読んで、『社会人大学人見知り学部卒業見込』、『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』と続けて3冊読んでみた。確かに面白い。芸能人のエッセイというのを初めて読んだので、テレビで好きで見ている芸能人の日常が面白いということと、『表参道』はただの旅行記ではなかったことやもう会えない人に想いを馳せた言葉に引き込まれた。『ナナメの夕暮れ』は『社会人大学』の続き(継続していた連載エッセイ)ではあったけれど、『社会人大学』の頃ほど斜に構えていられなくなった(大人・おっさんになった)自分のことを書いていて、自意識過剰な自分を赤裸々に吐露するだけでなく、そんな自分を少し冷静に引いたところから見られるようになったことまで書くなんて、すごいなーと思った。しかもそれが文筆業だけで暮らしている人ではなく、(芸や台詞で作り込んでいるとはいえ)テレビで姿を晒している人だ。

「こんなこと言ってしまったけど皆に何と思われているのか、そういうのはいらないですよとか思われてる気がする」と、仕事をしながら“みんな”や“評価”にビクビクしつつ、いまだにビクビクしてるのもどうなのと堂々巡りをしている三十代後半には勇気が出る。

 

書き下ろし部分の「ナナメの殺し方」が面白かった。

  • 自分の好きなものを見つける、書き出す、好きであることを肯定する。
  • 自分の尊敬する人について肯定する。
  • 自分の周囲の人について肯定する。
  • 世界を肯定する。

 グランデという人を否定するのをやめれば、自分がグランデと言っても否定してくる人がこの世からいなくなる。

 否定してくる人がいない世界なら、朝気持ちよく起きることも全然可能なのだ。  (p157)

 

これを読んで、以前、早朝にウォーキングをしようと思った時のことを思い出した。

ちょうど良い公園などがなかったので、住んでいる地域の住宅街を歩くしかなかったのだけど、ウォーキングなんてしているのを、このジャージを、寝起きに近いすっぴんと髪の毛を、変に思われないだろうか、という不安に襲われた。冷静に考えれば誰も私のことは見ていないのだけど、これが自意識過剰というやつだ。

それで、私は、普段外出時にしている眼鏡をかけないで歩くことにした。眼鏡なしだと道や車はわかるけれど、すれ違う人の表情などははっきり見えない。不思議なことに、周りの人がはっきり見えなければ、自分のことが見られているという感じがなくなり、自分が歩くことだけに集中できるようになった。

多分、他の人を見ているから、周りからも見られているような気になってしまう。意識はしていないけれど、もしかしたら私は、人を見ているだけでなく、何かしらの判断もしているのかもしれない。「走ってるけど遅いな」とか「派手なジャージだな」とか。そんな判断が、自分がウォーキングするときにすれ違う人々から投げかけられている気がしていたので、まずは自分が周りを見ない、ということには効果があったのだと思う。周りを見ない、なんて独りよがりな感じだけれど、この場合、現実的に人を見ないことは、自分の中で人から向けられると思い込んでいる批判を見ない、という形を作り出していた。すでに始まっていた独りよがりを止めるための方法が、現実的に人を見ないという謎なスタイルになった。

でもこうして自分が歩くことそのものに集中できると、他に歩いている人を好意的に見ることができたし、走っている人など尊敬できた。派手なジャージは問題ではないことがわかった。

自意識過剰をのさばらせないためには、集中(エッセイでは「没頭」を挙げている)と客観視(自分で判断しすぎない)なのだと思う。

 

・・・これを書きながらも「『ナナメの夕暮れ』と全然関係ないことを書いていると思われるんじゃないか」という不安がむくむくと湧き上がる。大丈夫、これは私が文章を書く練習の場なのだと書くことに集中し、今月のページビュー数はずっとゼロだからそもそも何かを思う奴自体がいないと客観視を自分に促す。

人を気にする不安は、結局、自分の中にある。

悲しみが歯を通じて体の痛みにつながっていることを実感した

肩も首も肩甲骨も痛すぎて鍼灸院に行き始めた。

もともと、肩凝りはあれど自覚することができず、美容院でマッサージしてもらうたびに「頭も肩も凝ってますね」と指摘されて、「はぁそうですか」と言うばかりで十数年過ごしてきたけれど、この2ヶ月くらい、凝りを通り越して激烈に痛い。寝起きに肩が上がらない。ぴりぴり、ズキズキする痛み。原因と思われるパソコン作業は働き出して以降、妊娠前・中ともずっと多い方で、復職後は寧ろ減っているのに何故?!と思いつつ、7,8年前に寝違えた時に鍼をしてもらったら一晩で治ったことを思い出して、近所の鍼灸院を探して予約した。

きれいで、鍼灸師さんが何人かいて元気のある鍼灸院。

問診票に痛みの部位や時期など記入。欄外に、「最初はお話を伺います。一見、痛みと関係のない質問と思われることもあるかもしれませんが、原因を探るためにお聞きすることがあります」というようなことが書いてあった。実際に、若くて優しそうな担当のお兄さんが40分もかけて話を聞いてくれた。痛みの場所、程度、時期などを聞かれ、時期的には完全に死産+産休の後だよなと思いつつ、言おうかどうしようか迷いつつ、最近の出来事として簡単に話をした。お兄さんは「それは大変でしたね。その時は悲しいこともたくさん感じられたでしょう」と言い、ストレスが原因となる痛みの話をしてくれた。私は肩凝りがスタートだと思っていたけれど、ストレスが原因の場合、上下の歯を噛み締めていることで、首、肩に余計な力が加わって痛くなることがあるという。「歯を噛み締めるなんて大袈裟な」と疑問を呈したら、上の歯と下の歯が触れ合っていること自体が力が入っているのだと教えてくれた。通常、歯は離れているものらしい。

ということで、鍼のスタートは顎の両側(耳の下あたり)と“全身の気の流れを良くする”という手のツボからだった。私の主訴は首肩および肩甲骨だったので意外。見立てはストレスによる歯の噛み締め、ということ。

後頭部と首にもしてもらい、初回終了。

上下の歯を噛み合わせないように気をつけることとストレッチが宿題となった。

 

気をつけて生活してみると、たしかに私の歯はふれあっているのが常のようで、離すよう意識すると違和感があった。夫は普段、歯は離れているというので、やはり力が入っているのかもしれない。

 

そんな気づきを伝えつつ、2回目も顎と手と首、肩に鍼を刺された。

朝起きて肩がつらいのはだいぶ良くなった。

ただ、上の歯と下の歯が触れ合っているのは、どうやら長年の習慣っぽいので、なんで今、こんなに痛くなっちまったのか…加齢かよ…と思っていた次の日。

 

復職してからも、たまに、仕事帰り等に突然泣ける日がある。特に普段のルーティンとは違う仕事があった時が多いけれど、そうでなくても急に泣けたりする。生理周期と関係するような気もするし、しない気もする。だいたい帰り道で、その日も運転中だったのでいかんと思って、ぐっとこらえた。

そこでハッと気づいた。

 

ぐっとこらえてる時に、めっちゃ歯ァ食いしばってる!!

 

ずっと家にこもっていた産休期間はこらえる必要がなく、好きなだけ泣いていたけれど、仕事が始まってからはそうもいかない場面も増えた。人と関わる時は笑顔も作るし、「調子はどう?」と聞かれればとりあえず「ぼちぼち大丈夫です」と答える。幸いなことに私の周りには「自分のペースでいいよ」と言ってくれる人が多く、仕事自体、まだ自分でペース配分できる時期なのでそこまで無理はしていないはず。それでも急にわーっと泣けたり、何もしたくなくなったり、落ち込んだりしている。

そんな時に、私は知らないうちに歯を食いしばっていた。

ああ、体に痛みが出るほどまだ悲しいのだな、と気づかされた。

心と体はつながっているとはいうけれど、こんなつながり方を実感するとは思わなかった。つらさに耐えることの比喩で「歯を食いしばる」という表現があるけれど、これはそのまま体の表現でもある。「飲み込めない(理解できない)」「腑に落ちる(納得する)」といった心身両義的な言葉を使って体と心を理解しようとした『心の消化と排出』(北山修)が思い出された。

 

もし、流産死産を経験した人で(そうじゃなくても大きな悲しみを経験した人で)、体の痛みが現れた、強まった、という人は、放置せず、鍼でもマッサージでもとにかく休憩でもいいから、体のメンテナンスをしてほしい。泣ける時間を作ってほしい。

体をいたわることは心を癒すことにつながっていく。

スーパーホテルが好きだ

出張に来ている。

ホテルはいつも自分で手配することになるのだけど、私はスーパーホテルが好きだ。

せっかくなのでスーパーホテルの好きなところをスーパーホテルで書いてみる。

 

一時期、アパホテル東横インに泊まっていた時期もあった。行く地域にスーパーホテルがなかったことが続いたからだろうと思うけれど、覚えていない。でも結局はスーパーホテルに戻ってきた。

アパホテルはちょっとラグジュアリーすぎる。それにあの折り鶴がいけない。あるって知ってるけど、部屋に入ると鶴に一瞬和むような気にさせられてしまう。そしてどうすればいいのかいつも困る。部屋に置いてあるアパホテル創業漫画も泊まる度に懲りずに読んでしまう。時間が無駄だ。それなのに、なんで「アパ」なのか未だに知らない。

東横インはシンプルだ。つまり、おじさん感がある。私もすでにおばさんなことは認めるけれど、それでもおじさんにはまだ至りたくない。私の父が出張には東横インが好きなあたり、おじさんを虜にしている。名前もちょっとクラシックだ。

 

スーパーホテルは名前が潔い。すごい感じを出すために「スーパー」ってつけたに違いない。サイヤ人が進化すればスーパーサイヤ人だし、セーラームーンだって、セーラームーンスーパー、セーラームーンスーパーズとスーパーがタイトルに2回続けてついた時がある。そのまっすぐな感じがいい。スーパーマン、スーパーマーケット、スーパーホテル

スーパーホテルは、ロハスを主張するだけあって、木のぬくもりっぽさを出してくる。安心のニトリ感がある。ロハスがなんだかいつも理解していないけれど、地球を大事にするということなんだろうと思う。エコじゃなくロハス。連泊の時は部屋掃除を拒否すると健康深層水がもらえる。私は今、環境保全に貢献しているのだ。

「健康朝食」がいい。多忙なビジネスパーソンは朝食が大事(私はビジネスパーソンでもないけど)。ホテル泊で朝ごはんコンビニのパンだと安くて済むけどちょっと淋しい。でも朝、朝食会場まで降りていくと、他にも一人で泊まっているらしいビジネスマンや、受験生とその親みたいな人や、若い夫婦とかがいて、一緒に健康を保つべく朝食を食べていると思うと寂しくなくなる。単に朝食つきのホテルに泊まったのではない。「健康」のための朝食を選んだ人たちだ。もはや同士だ。野菜のドレッシングがたくさんあるところもいい。だいたい柚子なんとかみたいなのを選んでしまうからこんなにたくさんなくてもいいけれど、選択肢があると思えることは大事だ。言うまでもなく焼きたてのパンも美味しい。朝から菓子パンを3つも食べることができる。コンビニのパンは大きいのでそんなには食べられない。それでも食べすぎとはわかっている。出張から帰ってきて太ってたらスーパーホテルのせいです。コーヒー用の紙コップも「間伐用木材を使っていてロハス」だ。

部屋に入るとすぐ、スリッパを履き始める玄関的な線があるのもいい。ホテルではきっとみんなスリッパ履いてるだろうと信じて、ときどき風呂上がりに裸足になってしまうけれど、実は私以外はくつで室内で過ごしていたらどうしようと言う不安がないわけでもない。でも、スーパーホテルは「ここからスリッパになろう」と言う線が引いてあるから、たぶん皆室内ではスリッパになっているとより強く信じることができる。しかもスリッパはマイナスイオンが発生する健康スリッパだ。健康は足元から。靴下はいててもマイナスイオンは取り込めるのだろうか。

温泉もある。ユニットバスでお湯に浸かれなくもないけれど、大きいお風呂はやっぱりいい。肩までつかると出張で慣れないところに来た疲労がスッキリなくなる気がする。このまま明日の用事もなくなればいいと思うけど、温泉にそこまでの効果はない。でも今回のスーパーホテルは残念ながら温泉のない「一部地域」だったので、ユニットバスでお湯をためたのだった。

 

宿泊アンケートにスーパーホテルが好きな気持ちを書こうかと思ったけれど、「アンケートをフロントにお持ちいただくとお菓子をプレゼントします」とあって、お菓子が欲しくてアンケートに答えたと思われるんじゃないかというくだらないプライドが邪魔をしたので、ここに書いてみた。

スーパーホテルで働く皆さん、いつもありがとうございます。

www.superhotel.co.jp