ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

恩師のお返事

学生時代の恩師に連絡する機会があり、一緒に近況報告として死産のことを伝えた。妊娠していた時に会っていたので、どこかで伝えないとなーと思いつつ、直接会う機会もないし、どうしよう…と思っていたところで、私としてはちょうど良かった。

妊娠していた頃に会ってから2ヶ月後くらいに亡くなったこと、その直後は落ち込んで家にこもって生活していたこと、その後復職してぼちぼち過ごし、新年度になってからも気持ちはときどき落ち込むけれど仕事はできていると思うこと・・・を伝えた。

恩師からは、「悲しいことがありましたね。とにかく時間がかかるでしょうね」とお返事いただいた。現在、仕事が変わらずできているということは大事ですね、とも。安易な励ましはなく、今後のことにも触れなかった。

 

本当に、時間がかかる。

 

身体的には問題ないし、日常的には以前と変わらず仕事ができている(寧ろ、仕事はなぜか増えている)。それでも、慌ただしい1日を終えて帰る車の中とか、最近は大丈夫になったはずなのに赤ちゃんを見かけたある時突然とか、なんだか落ち込む。特に最近、暑くなるにつれて、去年妊娠していた時は暑い中お腹抱えて歩いていたなぁとか、そんなことを思い出すことが増えた気がする。11ヶ月が経ち、もうすぐ亡くなった日が近づいてくるというアニバーサリー効果もあるのだろうと思う。

大事な対象(子、親、配偶者、友達、場所、自分の状態 etc.)を喪失した時に起こる反応を「悲嘆反応」と言ったり、悲しみや罪悪感などの感情や考え方・行動の変化のプロセスを「喪の作業」と言ったりするけれど、そうした過程って一見大丈夫な感じに見えても心の底で少しずつ進んでいるものなのだなぁと実感することも増えた。

危機に陥った人間の心は、一時的には混乱したり落ち込んだり、いろんな反応を示すけれど、じゅうぶんに悲しむ機会があったり、そのことを誰かと共有したりできることで、通常は日常生活が送れる程度には少しずつ収束していく、という。悲しむ時間がとれなかったり、無理に(不自然に)断ち切ろうとしたりすると、悲嘆の苦しみは複雑化・長期化しやすい、とも聞く。災害などの危機的状況では、普段と異なるさまざまな反応が起こることについて「異常な事態における正常な反応」だと言われている。通常と異なる大変な状況では、どんな反応(感情・行動)も起こりうるしおかしくない、ということだ。

だから、死産して最初の1ヶ月に起き上がれない、涙が止まらない、寝つけない等々あったことはそんなものだろうと心のどこかで思っていたけれど、11ヶ月が経っても、思いもかけないきっかけで悲しくなったり投げ出したくなったりする、ということがあって、まだまだ「異常な事態における正常な反応」は続いているようだ。

 

そんなことを感じていた矢先の恩師の返事は、悲しみと共に過ごす、ということをわかってくれているような気がした。

もうすぐ1年になるし、お盆もある。日々の忙しさから少し距離をおいて、気持ちにじっくりと向き合おうと思う。