ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

クリスマスにドーナツを3個ではなく2個買った話

亡くなった我が子のことをどれだけ思っていても、結局、思いだけを強く残すというのは難しい。

 

クリスマスにはケーキを食べることがあると思うけれど、私はケーキを予約する余裕がなかったし、ケーキ屋は見るからに駐車場が混んでいて入れそうな気がしなかったし、コンビニのケーキを食べる気分でもなかったので、ドーナツを買って帰ることにした。なぜケーキを食べるのかもよくわかっていないのだから、なんか甘いもの、を食べるということでいいだろう、という感じ。

本屋に寄った後、ドーナツ屋に行った。普段のドーナツだけでなく、クリスマスバージョンのドーナツ(サンタやツリーの柄の描かれたドーナツ)もあって、それまでクリスマスらしさなど全くなく仕事の疲れを肩に乗せて歩いていた私も少し気分が高揚した。私の前に大量のドーナツを選んでいた思春期くらいの娘とその母親らしき二人組の楽しそうな雰囲気にも少し影響されたのかもしれない。

「ただいま、3個お買い上げで割引になりますが、どうされますかぁ?」

ドーナツを2個選んだところで店員にそう声をかけられ、私は、割引になるといっても結局3個買った方が値段はかかる訳だし、今日も夜遅くなるだろうからこの年で食べられる量には限界があるし・・・と瞬時に判断して、3個目は買わないことにして、お金を払って店を出た。寒いし、早く家に帰ろう。

 

この辺りで、冒頭に戻る。

なんと合理的に「2人分」のドーナツを買ってしまったのか、と自分の行動にショックを受けながら帰るハメになった。

我が子のことは忘れていないし、写真を見れば悲しいし、夕方のニュースなどや市の広報誌の赤ちゃん紹介コーナーは直視できないけれど、でも、やっぱり、私の家には3人はおらず、外出すると意識することは難しく、「3個で割引」とヒントをもらっても3人目のことはちらりとも頭を掠めもせず、反射的に2人分のことだけ考えて帰ってきてしまうんだなぁ〜〜〜ハァ〜〜〜〜、とため息が出た。

 

悲しみは少しずつ薄まっていくとわかっている。というか、そうでないと日常生活が送れない。日頃、考えることが少なくなっても存在自体が私の血肉になっているからだよねと思ってもいる。おりんも変わらずいい音を鳴らす。

 

一方で、新しい楽しみと、私の死産を知らない友達が増え、日々は結構楽しくやっている。この前、久しぶりに会った仕事関係者に「出産されたんですよね? おめでとうございました。遅くなりまして」と声をかけられて、久々に不意打ちをくらったけれど、それ以上は発展しなかったし、個人的な話をする間柄でもないので(あと仕事の話にすぐ移ったので)、「ええ、まあ、はい」と返してしまった。1年前だったら、違う反応をしていたかもしれない。こういうことの積み重ねが、今回のドーナツ2個に繋がったのかなと思う。かと言って、今の生活や対応の仕方が間違っているかと問うてみても、そんなことはないだろう、と思う。

 

それでも、赤ちゃんがいなくても生活できてしまう自分を感じるとそれはそれで悲しい。

 

 

どうすればいいんだろう・・・とよくわからないまま、年末年始。

今年は実家にも帰れないし、3人でゆっくり過ごそう。