ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

死産後の生活12:1年半が経った

1年半、と書いたけれど、本当はもう1年8ヶ月が経っている。

1年半の時点で、ああそろそろ何かを書きたいなぁと振り返っているうちに、職場でいろいろと起こり、それにワタワタしている間に新型コロナウイルスが広まり始め、その対応にてんやわんやで、今に至る。新型コロナウイルス、イタリアやアメリカ、緊急事態宣言、テレワーク、10万円給付 etc.を日々ニュースで見ながらどうなるんだろう…と思ったり、コロナっぽい症状だったよという人たちのレポートのような記事を読んで自分の体調の変化に怯えたりしている。影響されやすいので、こういう時に困る。

ちなみに、人工授精をした話を前回書いたけれど、全然妊娠していない。

 

もし我が子が予定通りに生まれてきていたら、コロナ流行はちょうど1歳半健診の時期と重なった。健診を一時的にやめていた自治体もあったので、もし1歳半の子どもがいたら、どうすればいいのか心配だっただろうな。姪っ子の幼稚園も休園になっていて、妹が大変そうだ。

そういう心配や大変を一緒に経験できると良かったのにねー、と絶対に感染症にかかる心配のない我が子に話しかけ、自粛生活を送っている。

 

 

最近の出来事。

少し前に、骨壺を入れている袋を変えてみた。それまで、火葬の時に業者に入れてもらった、シンプルでイカニモな白いカバーに入っていたのだけれど、もっと可愛くしてあげたいと思い立ち、ずっとカバーを探していた。でも、「骨壺 カバー 3寸」とかで検索すると、ペット用と書かれたかわいいカバーしか見つけられない。ペット用て書かないでくれたらいいのに…。納骨して手元に少し骨を残すのであれば、洒落た骨壺やリングやネックレスがあったが、アクセサリーをつけないし、そもそも納骨がまだできそうにない。

見つけたのは、Francfrancのポーチ。

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写真は楽天ファッションのもの

底もあり、ちょうどです。

不謹慎か?としばらく悩んだけれど、子に素敵であってほしいと願うことは悪くもなかろうと思い、いいことにした。生きて育って、自我が出てきたり思春期になったりすると親の願いは重荷になることもあるのだろうけど。

 

 

あと、最近の出来事と言えば、死産に関するふたつのクラウドファンディングに協力した(どちらも今は終了)。

一つは、死産した赤ちゃんのかわいい棺「おくりばこ」

 

もう一つは、家族向け「支援リボンピンバッジ」

 

両方とも、企画した方達の思いやりと強さが感じられて、企画趣旨とかは涙なしには読めなかった。どちらも目標達成して良かった。発展していってほしい。

自分が病院で受けた対応を振り返っても、全体的に悪くはなかったが、ちょいちょい気になるところはあった。どんな分野でも、大多数と異なる対応が必要なイレギュラーな症例というのは件数自体が少ないので、援助者個人の経験やセンスに左右されてしまいやすい(それ以外の通常の援助や治療も同じだけど)。そこを補う最初の手段はまず知識だと思うので、経験者からの活動や情報提供は重要だと思う。そして、経験者が頑張らなくても適切な理解と支援が共有されるようにする責任が、専門職にはあると思う。

私自身も、いずれはこんな活動や支援に関われたらいいなとは少しずつ思うようになってきた。でも、上記のクラファンをfacebookで共有しようとしただけで、予想以上の時間と勇気が必要だったので(この感覚が何故なのか、明らかにしたいところだ)、まあ今のところは、まだ思っているだけでよしとしよう。

 

1年経った頃とも同じく、日常的に泣いたり落ち込んだりすることはほとんどない。でも、テレビ見ていて突然、母子手帳が出てきた時にわーっと涙が出てきてびっくりしたことがあった。赤ちゃんの映像(CMとか)もややしんどい。ちょっと前まではむしろ道ゆく抱っこされた実物赤ちゃんでも平気になってきていたので、波があるのかなぁと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

はじめての人工授精

「人工授精」と「人工受精」のどちらが正しいのだろう。いくつか医療機関のホームページを見ていると、「授精」と「受精」が混在している。日本産婦人科学会のホームページでは、「人工授精」「体外受精」「顕微授精」とあった。

精子を授ける」「精子を受ける」の違いなのだろうか。それなら「人工受精」が正しいような気もする。

 

そんなことを考え始めた、タイミングをとり始めて5ヶ月目。うち1回は排卵なし。「一度は妊娠しているから大丈夫」と言っていた主治医も、こりゃ厳しいなと思ったのか、「年齢もあるし、あんまりのんびりはしてられないよね」と宣った。私もそう思う。ということで、初めての人工授精に取り組んだ。

 

事前説明

相変わらず無表情・超早口の看護師から説明を受けた。他の看護師さん相手だとだんだんと軽い雑談をしたりできるようになってきたのだけど、この人の時はとにかく聞き落とさないように集中するしかない。採取した精子を2時間以内に持ってくる…くらいはなんとなく知っていたけど、渡された容器が昔のカメラのフィルムケースの一回り大きいやつ、みたいな意外とちゃちい…感じに驚き、しかもそれを「ブラジャーかショーツの中に入れて人肌に密着させて持ってきてください」というのに二度驚いた。

原始的! 

もっとなんかいい持ち運び方ないの?! 

私の行っているクリニックが実は結構古い体質で本当は最先端な何かがあるんじゃなかろうか…と思って検索してみたけれど、他にも同じような説明をホームページに載せているところがいくつかあったので、ここがとりわけおかしいわけでもなさそうだった。ホッカイロ巻いてたらダメなのかなぁと思ったけれど、熱すぎてもダメだという…。

こうやって調べながら「精子を採取して持っていく」という行動自体に拒否感があることに気づいた。精子の採取も持っていくことも、なんだか不自然。なんか変。妊娠するってそういうことなの? うっすらと感じてはいたけれど、さあやるぞとなったらそんな感覚が強まった。次のステップはそうするといいんだよねハイハイ、と受け入れていたと思っていたのに、話を聞くだけなのと、実際に自分がするのとでは感じ方が全然違った。物分かりのいいフリをしていただけか。

こんな曖昧な抵抗感、もしかしたら不妊治療に踏み出すか踏み出さまいか迷っている人、よく知らずに反対してしまう他人、アレコレ言う外野が持っているのかもしれない。世の中には人工的で不自然なものは溢れているのに。

 

当日

もやっとしつつも予約をしてしまったので、問答無用でその日はやってきた。

私は午前の会議に出て午後は休みをとり、夫は職場と調整して昼休みに一旦帰宅した。

私の方が遅く帰ると、夫は精子の入ったフィルムケースをお腹であっためているところだった。確実にさっきマスターベーションを終えたであろう人に、私はなんて声をかければいいのか。そんなことでまたもやっとした私に、夫は「ケースからこぼさないでとれてよかったー」と笑った。あれ、とっても普通。必要な仕事を終えた人の顔だ。

フィルムケースを受け取り、私もお腹に入れることにした。こんなこともあろうかと脂肪を腹に蓄えている。夫は仕事に戻った。

 

しかし、予約までまだ時間がある。ケースをお腹に入れたまま、なんだか落ち着かず、ぼーっとしたり漫画読んだりして過ごした。

お茶でも飲もう、と立ち上がろうとして、ケースが横に傾かないよう支える。

ときどき、ちゃんと肌に触れているか心配になってそっと向きを確かめる。

そんなふうに何度かお腹に入れたケースを触っているうちに、なんだか不思議と自分が大事なものを扱っているような気がしてきた(大事なものなんだけど)。傾けないように、落とさないように、大事なものを、そーっと、そーっと。気持ちが行動を形作っていくことが多いだろうけれど、今回は完全に行動が気持ちを作った。悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ。

 

そうこうしているうちに出かける時間となった。お腹にフィルムケースを忍ばせ、出かけた。外に出た時も、落とさないよう気をつけて、なんとなくお腹の辺りを支えていった。大事なものを運んでいる感がますます強くなった。命の半分を運んでいる。

前日までの抵抗感がゼロ…とは言えないけれど、大幅になくなった。行動してみるもんだ。

 

クリニックでは活発な精子を取り出すのに1時間ほど待った。培養士の方が丁寧に説明してくれ、調整した精子を見せてくれた。夫の精子を褒められるという初めての経験をした(同時に、やっぱり私の方の問題かーと思った)。

 

人工的に精子を入れるだけ、ということを初めて知った。

「受精」か「授精」か悩んだのに、「人工精子注入」が正解だった。

 

自費診療 19,500円也

 

クレジットカードが使えたらポイントがすごく貯まるのになぁ…。

 

大事な半分を抱えて持っていった、という感覚が得られただけでも今回はとても有意義だった。

うまくいけばもちろん嬉しいけれども、まあ、その辺りは神頼み。

 

 

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最近ハマっている漫画「ミステリと言う勿れ」 体外受精に対する周囲の声に悩む女性



 

 

 

 

自分に楽しみを準備する:PENTATONIXのライブに行きました

PENTATONIXの来日ライブに行きました。

いやー、良かった。素晴らしかった。来てくれた5人とスタッフの皆様にありがとうと言いたい。ありがとう。Thank you so much. MINNA DAISUKI.

 

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かわいい



撮影OKだったので、撮りますよね。

以前、「我が子以上に残しておきたいものはないんだなぁ」と書きましたが、写真も動画も撮りました。なんという信念のなさ。子がどんどん成長していれば、ライブで数枚撮ったところで、子の記録がどんどん追加されていくところなのに。

でも、赤ちゃんの写真がスクロールしないと見られない、遠くなってしまった、どうしよう…と嘆いていたら、別でフォルダを作ればいつでもすぐに見られるよ、と教えてもらいました。そんな初歩的なことに気づかなかったのか。解決。 

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1曲め Daft Punk 見せ方すごい

 

ということで、ライブの間は純粋に楽しめました。

死産、そして、思う通りにならない次の妊娠、という不安定な日々の中で、自分のために楽しみを用意しておくのは大事ですね。うまくいかなくても、ライブの動画や画像を見て、多少は気持ちを紛らすことができるし。

 

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開演前のステージと水

 

その一方で、チケットをとった半年前には、「もしかしたらこの頃には妊娠していて、17,000円のチケット代は無駄になるかもな」と思ったことも確か。結局、そうはならず、無事にチケット代分楽しめたことは良かったのかなんなのか。人生でどっちが良いかと言われたら、もちろん、チケットが無駄になった方が良かったとは思う。

いや、そもそもチケットをとらずにいれば、ただ周期が過ぎていくだけなので、「半年前にはチケット無駄になると良いなと思ったのに、結局ならんかったな…」という虚しさを感じなくて済む。

 

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なんかしゃべってる

 

それでも、やっぱり考え直す。

楽しみが何もなく、妊活の周期を繰り返すだけだったら。

それは、私にとってはとてもしんどいことだと思う。

理想的には周期と同じだけ、毎月のように楽しみを差し込んでいきたい。そして、もしうまくいかなかったとしても、自分の努力ではどうにもならないことと、自分が自分のために準備した楽しみを、なんとなくごちゃ混ぜにして生活したい。

こんなふうに思っていられるのも自分のメンタルに依るよなと思いつつ、そんなことを考えました。

 

 

5年前、ロサンゼルスで見たPENTATONIX。

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この時もとても良かった

 

 5年前は、5年後こんなふうになっているなんて思いもしなかったけれど、変わらず私の楽しみであり続けてくれているPENTATONIXに感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カラマーゾフの兄弟」を読んだ:読み終えたんだよとにかく

生まれて初めて、ドストエフスキーの本を読んでみた。長編小説「カラマーゾフの兄弟」。最近出た新しい訳ではなく、新潮文庫の訳で表紙にドストエフスキーの顔がドーンとでているやつ。渋い顔で髭がすごい。

 

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もともと夫の持ち物で、ずっとうちにあるのは知っていたけど読んだことはなく、持っている夫本人も高校生の時に読んだらかっこいいなと思って買っただけで全く読んだことがないとのことだった。なんでだったか手にとり、読み始めて、4ヶ月かかってなんとか読み終えた。長かった。合計1500ページ。

12月にはNHKの「100分de名著」が「カラマーゾフの兄弟」を取り上げていたので(新しい訳の方だけど)、読み終えてから観た。ナイスタイミング。

もう二度と読まないかもしれないので、感想を書いておこうと思う。

 

感想

宗教観やロシアの制度・状況など、よくわからないままにとにかく読み進めてしまった。むしろ、読み進められた、ということに驚く。わからないところはあるにせよ、その勢いとか迫力とか不思議さ不可解さとかは伝わってきて、なにこれどういうこと〜?と随所で思いながらわかるところを拾って読み切った。「100分de名著」では、「物語層」「自伝層」「歴史層」「象徴層」という理解の仕方が提示されていたけれど、私は文字で読める「物語層」の部分、たぶん全体の上澄みだけを掬った感じだ。中学生の頃、晩ご飯の味噌汁をしばらく静かに置いといて上澄みだけを飲むことにハマっていた私にはぴったり。

それでも面白がることができたのは、この救いのなさそうに見えるカラマーゾフ家やその周辺を形作っている個人の信念や支えている宗教観、ダメダメなところ、執着、貪欲さ、怒り、流されやすいところ、衝動的なところ、理性、裏切り、後悔、何を恥と感じるのか、プライド、狂気、ショックと立ち直り、見下す、赦す、信じる、等々のいろんな側面が読めたからではないかと思う。

特に、後半のイワンとスメルジャコフのやりとり、イワンの幻覚とのやりとりは気持ち悪かったし、迫力があった。下記にあらすじを書いてみても思ったけれど、全体の筋としてのつながりは掴めていないのが明らかで、だけど、ひとつずつの場面、キャラクターのやりとり単体を楽しむことができた。

私でも読めた!!

 

感想、以上!!

 

 

あらすじ

全体を一編ずつまとめてみる。多分、「すじ」にはならない。

 

作者の言葉

最初から気弱と見せかけて自信たっぷりな作者の言葉。

〜〜こんな種類の質問を避けられぬのが予見できるからである。

『(略)読者たるわたしが、なぜその男の生涯のさまざまな出来事の詮索に時間を費やさにゃならないんだい?』

最後の質問は一番決定的だ。なぜなら、これに対しては『たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです』としか、答えようがないからである。

この部分は、連載から単行本になる時に追加されたものらしい。本当は小説は2つある、とにおわせているプロローグ。でもドフトエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き終えてから亡くなったそうなので、わからないらしい。

 

第一編 ある家族の歴史

ドミートリィ? ミーチャ? アレクセイ? アリョーシャ? 苗字? 名前? お前は誰? 同一人物なの? と、名前が覚えられないのと本名と愛称が違いすぎて誰が何だかよくわからなかった(寝落ちするまで読んで、次の日続きから読むと誰が何だかわからなくなっていた)のが大変混乱した。アレクセイとアリョーシャはまだわかるとしても、ドミートリィがミーチャって呼ばれるのはなんでなの。

あとフョードルがすごいダメな奴。

 

第二編 場違いな会合

長老の前で父と長男が大喧嘩。

アリョーシャの同僚?のラキーチンがカラマーゾフ家をボロクソに言ってて、それを目の前で聞いていて殴りもしないアリョーシャはいい奴を通り越して心配になる。ドミートリィが暴れん坊を、アリョーシャが聖人君子をそれぞれ分割してもっている感じ。

「ラキーチン」て「チキンラーメン」に似てる。

 

第三編 好色な男たち

スメルジャコフの生まれが壮絶。フョードルがすごいダメな奴。

ドミートリィが乗り込んできてフョードルをぶん殴った。この二人の喧嘩の原因になっている女性グルーシェニカが、ドミートリィの(元?)婚約者カテリーナを見下すところに居合わせたアリョーシャ可哀想。ただ、この辺を読んでいた時は、ドミートリィと父フョードルがなんで喧嘩してるのか、正直、よくわかってなかった。大事なところなのに、よくそれわかってなくて読み進んでいたなと思う。「三千ルーブル」というお金が問題みたいだけどなんだろうーと思いながら、とりあえず進む。

 

第二部

第四編 病的な興奮

突然アリョーシャが子どもに指を噛まれた。そのあと、子どもの親父のところに、カテリーナから頼まれてお金を渡しにいったアリョーシャは、テンションが高くなって調子に乗ってしまい、へりくだり親父にキレられる。アリョーシャが自覚せずに、つい上からものを言ってしまい、でも本人は手伝いたいという一心で、というのがさすがの私にも感じられた。つらい。

 

第五編 プロとコントラ (ラテン語で「肯定と否定」の意味)

イワンの「大審問官」なっが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

第六編 ロシアの修道僧

アリョーシャのお師匠ゾシマ長老のお話。作中劇?的な。なんの話なのかよくわからなかった。

 

第三部

第七編 アリョーシャ

ゾシマ長老が亡くなって、アリョーシャ覚醒。

 

第八編 ミーチャ

愛するグルーシェニカを奪うための金集めに奔走するドミートリィ。そして、フョードル殺人事件の決定的な場面。

えっ、こんな表現する?! 東野圭吾の小説だってこんなの読んだことないよ!

ここからぶわっと引き込まれて、今までよくわからんと思っていたけれど、急にちゃんと筋がわかるようになった(と思う)。

ドミートリィは血のついた手やら服やらを洗って、突然お金持ちになって食料をごっそり抱えて馬車でグルーシェニカのいるモークロエに飛んでいく。「100分de名著」で解説していたロシア文学者の亀山先生が、ドミートリィが通ったであろう道を車で実際に走ってみた、とすごく嬉しそうに語っていて、ああ、聖地巡礼っていうのは時間も場所も超えて人を幸せにするんだなってほっこりした。

グルーシェニカって目の前の人に調子合わせすぎ八方美人すぎと思うのだけど、だからモテるんだろうか。

 

第九編 予審

ドミートリィがあっという間に捕まって、取り調べられて連行されるところ。

 

第十編 少年たち

アリョーシャの指を噛んだ少年が重病で、意地悪していた他の子たちとアリョーシャが見舞いに行く。場面転換が突然すぎて混乱。ドミートリィは?? 

 

第十一編 兄イワン

やっとタイトルに名前が挙がって取り上げられたと思ったら、可哀想なくらい弱っていたイワン。理性で神様がいるとかいないとか論文まで書いていたのに、幻覚と会話しながら怒り狂う。そのギャップに怖さを感じた。ストーリーは理解できてんだかできてないんだかだったけど、とりあえず、イワンってこんな人じゃなかったのに!と思うくらいには、その印象が私にも刻まれていた。さすが、ドストエフスキー

 

第十二編 誤審

裁判は完全に「リーガルハイ」。古美門研介がいた。堺雅人を配役して読んでた。

語り手の「わたし」が前面に出ていて、誰?? と混乱。前のページを読み返してみたけど特に何もなかった。作者…かなと思ったけど、完全にその裁判を傍聴していたふうに書かれていたのが不思議。

 

エピローグ 

最後も子どもたち。そんな終わり?! 

カラマーゾフ万歳!? どういうこと??

 

 

 

・・・以上、「カラマーゾフの兄弟」を読んだ感想とあらすじでした。

「100分de名著」で、哲学者ウィトゲンシュタインは30回読んだ、という話が出ていたので、哲学者30回で私が1回なら、頑張ったんじゃないかと思う。

 

 

 

 

プリキュア第42話「笑顔の迷い、えれなの迷い」:笑顔という共生から個の自立を想像した

プリキュアってこんなに考えさせられるアニメだったのか…と、これまで見てこなかったことを後悔している。

今週の放送で、私は単純にえれなが覚醒(内なるトゥインクルイマジネーションを発見)するのだと思っていた。これまで、ユニ、ララ、まどかが覚醒してきたからだ。でも、今週えれなは覚醒しなかった。変身シーンが最近では珍しくオリジナルの長いバージョンで、これちゃんと覚醒して終わるのかな…と思っていたら、次週に続いた。

 

「スター☆トゥインクルプリキュア」12月1日(日)放送予告
第42話 笑顔の迷い、えれなの迷い。

家族のことを思うあまり、自分の進路について希望を言い出せずにいるえれな。それが実は母・かえでを悩ませていると知って…

(スター☆トゥインクルプリキュア公式YouTubeより)

www.youtube.com

 

 『スタプリ』第42話「笑顔の迷い、えれなの迷い。」より先行カット到着!

『スタプリ』第42話「笑顔の迷い、えれなの迷い。」より先行カット到着! | アニメイトタイムズ

 

えれなの口癖は「笑顔」。敵であるテンジョウはそれが気に食わず、フワを奪うという本来の目的も忘れて、キュアソレイユ(えれな)に、笑顔は偽物だとか、意味がないとか、母親を苦しめているとか言って責め立てる。

 

えれなは、通訳の仕事で忙しい母親に代わって、弟妹たちの面倒を見て、ご飯を作ったり父親の店の手伝いをしたりして、家族の笑顔が自分の幸せだと思って日々を過ごしているところがある。お姉さん役割・お母さん役割をこなして、しっかり者の姐さんタイプで、学校でも笑顔が素敵な人気者。だけど、それは逆に考えると、忙しい母親や手のかかる弟妹たちがいるおかげで成り立っている「えれな」だ。えれな自身がそういう在り方を選択してきたというよりは、おそらく、家庭を守っていくためにそうせざるを得なかったのだろうと思う。

笑顔は素敵だけれど、物事には必ず表裏がある。えれなが明るく振る舞うのを横目に、母であるかえでは自分がえれなに負担をかけてしまっているのではと思い悩んでいる(ところをテンジョウにつけこまれた)。えれなはノットレイダーに取り込まれたかえでを見て、自分がかえでに負担をかけていると知ってショックを受ける(けどちゃんと戦って勝った)。

現在の「えれなが“みんなの笑顔”を大事にして生きている」という状態は、えれなと他の人は一心同体もしくは共生している状態だ。えれなが頑張ることで家族や周囲が笑顔になり、家族や周囲が笑顔になるとえれなも嬉しくなる。

だけど、今のえれなは「笑顔でいること」が強調されすぎていると感じる。えれなの「皆を笑顔にできなかったらどうしよう」という不安や、家族や周囲の役に立てない不甲斐ない自分、という負の部分が隠されていると思う。その意味では、テンジョウが「うわべだけの笑顔」とか言ってザクザク刺してくるのも案外間違ってないのかなとも思う。

そして、家族や周囲を基準に生きているえれなは、進路選択で突然「自分のやりたいことをやっていい」と自分を基準にする話をされても見つけることができない。なぜなら、自分を基準にすれば、家族を笑顔にできないかもしれないからだ(進路に関わる経済的負担とか家事ができなくなるとか)。

でも、進路選択をはじめとした自立のプロセスというのは、自分が何が好きで、何を面白いと思っていて、何をやりたいと感じているのかという感覚を見つけていくことからスタートする。裏返せば、何かを好き/面白い/やりたいと感じるということは、その他のものをあまり好きじゃない、嫌い、気が進まない、私としてはこれはちょっと違うかな…etc.と表明することでもある。つまり、自分の進路を決めるということは、相対的に家族を大事にしないということでもある。家族の笑顔を基準にしてきたえれなには結構しんどい状況だと思う。

共生状態から個としての自立へ。

最終的には、自分も家族も両方を笑顔にする、というやり方があり得るけれど、そのためには、家族の笑顔一辺倒でやってきた今までのやり方を変える必要があるから、自分に馴染みのない在り方を身につけなければならないし、周囲を傷つけるかもしれない。変化はこわい。そんな変化が本人にも周囲にもどんどん起こっていくのが、思春期・青年期なのだ。

 

 

なんと思春期の成長を美しく描いているのだろう。

 

たぶん、えれなは、自分の進みたい進路を両親に伝えるだろうし、「だけど、弟妹たちが…」とか言うと、母が「大丈夫! お母さん達の役割なんだから。えれなは自分のやりたいことをやりなさい」とか言って、個としての自立の一歩を踏み出し始めるに違いない。えれなはえれな自身が進路を選び、父と母は子どもたちと家庭を守るという本来の役割に戻っていく。

 

 

あと、えれなが母親役割をこなす一方で、母親役割を十分にできていないと自分を責めるかえでにも注目したい。このえれなの家族は、「三歳児神話」のような、母が子どもの世話をしなくてはならないという価値観に言及していると思う。「多様性」と「イマジネーション」がキーワードだと私は思っているので、仕事に忙しい母・かえでが、子どもや家族を犠牲にしていると自責感にかられることなくいられる在り方がどのように表現されるのか、楽しみだ。

 

 

 

 

姪の誕生日

姪っ子、めでたく3歳になった。

お祝い料理と、何やらポーズをとっている写真が送られてきた。

姪っ子は私にとって大変可愛く、オババカ丸出しである。私が妊娠・死産する前に産まれているので、私の赤ちゃんと年齢がかぶることがない(1年経てば1年分、姪っ子も歳をとるから)。だから、接するときもただ、姪っ子を可愛がるバカなオバとして過ごせている。

ただ、なんだか「誕生日」というイベントを楽しむ写真を見たら、無性に悲しくなってしまった。

 

誕生日が来るたびに歳が増え、成長していく姪っ子と、

誕生日を迎えども迎えども、大きくならない写真の中の赤ちゃん。

 

こんなところにもまだまだ悲しさが残っていたのだなぁ。

母と妹がやりとりしているのをいいことに、忙しいふりをして「お誕生日おめでとう」の一言も返せなかった。

まあ、また来年になれば、心持ちも変わってくるだろうと期待する。

 

 

 

 

 

不妊治療に行き始めた

死産から1年ちょっと、妊活を再開してから半年が経った。

「次の年は妊娠しやすい」というのは嘘か真か。死産した1年以内に妊娠したという方をTwitterで見たり、リアルにも1人きいたりしたので、なんとかなるかなと思っていたが、今のところどうにもなっておらず、毎月トイレで「やぁ、またお会いしましたね…」と挨拶を交わすばかり。

 

不妊」とは、妊娠を望む健康な男女が避妊をしないで性交をしているにもかかわらず、一定期間妊娠しないものをいいます。日本産科婦人科学会では、この「一定期間」について「1年というのが一般的である」と定義しています。

(日本産婦人科学会ホームページ)

ただし、35歳を過ぎたら半年妊娠しなければ治療に行った方が良い、という話もあり、以前の妊娠は30代半ばだったけれども、今や立派な30代後半になったことを自覚して、行くべきではないかと思い立った。 

・・・のが8月後半。近所を調べてみて、隣の大きな市にある不妊治療専門クリニックが遅くまでやってて良さそうと思い、一度電話したところ、

「生理の直後か、排卵の少し前に来てもらえたら、せっかく来ていただくので検査もできた方がいいと思いますよ」

と言われ、生理の直後はわかるけど、排卵の少し前って、それを教えてくれるために行くんじゃないのかよーと思って、初めてのことに不安が強い私は混乱したのだった。

 

そして、今回妊娠してるかもしれないしーと悪足掻きをして、今月は様子見ようと思い、結局、ただ時間が流れただけに終わった。「様子見」と言う時って、大概、ただやりたくない時だよなと実感。まあ、心構えの時間が必要なこともある。

 

受診

それでもぎりぎりまで何かに抵抗し、診察受付のほぼ最後の時間に滑り込んだ。予想はしていたけれど、待合室にたくさんの人。ほとんどが女性、ときどき配偶者らしき男性、稀に子ども。ああ、ここにいる人たち、みんな、子どもができないことに困ってここにいるんかな…と思うと、なんだか元気が出た。心の仲間は大事だ。不妊治療専門クリニックなので、妊娠したら基本的には一般の産婦人科に移っていくため、少なくともお腹の大きな妊婦さんを見かけることがないのも良かった。出産も対応している産婦人科で、不妊治療もしてますというところがあるけれど、待合室で妊婦見ながら不妊治療に通うのは、私だったらしんどい。

問診票に、結婚期間や不妊の状況を書く欄があり、

  • 避妊していないが、妊娠しなかった
  • 妊娠はしたが、流産した

という選択肢があったので、二つ目にチェックを入れ、余白に「死産」と書き込んだ。週数も書いたのでわかるだろうけれど、選択肢の文章にも入っていないあたり、やっぱり数も多くはないのだろうか。ないことにされてしまうようで悲しい。

 

看護師の説明

ネットで一通り読んで、なんとなくわかっているつもりだったけれど、いざ、自分ごととして、排卵・受精・妊娠の仕組み、基礎体温、血液検査、フーナーテスト、卵管造影検査、人工授精、体外受精、ここまでは保険診療、ここからは自費…と一気に説明されると、「ちょっと何言ってるかわかんない」状態だった。看護師が淀みなく喋るのを聞きながら、立て板に水ってこういうことかなぁとか思っている間に説明は終わった。向こうもネットで見てるでしょと思って、こんな感じになるのだろうか。最後に冊子を渡されたが、最初から、患者の手元に残るこの冊子に沿って説明してくれたら良くないですかね。「卵管造影検査は痛くありません」と強調されたことだけが印象に残っている(そのあとの診察でも言われた)。よっぽどこれまで「痛いんですか?」「痛いんですよね?」「ネットで痛いって見たんですが」と聞かされてきたのだろうと想像した。

 

看護師さんの説明から1時間半ほどさらに待つ。小説でも持ってくれば、この待ち時間は大したことはない。

 

診察

開口一番、「長い時間お待たせしてごめんなさいね〜」と白髪の混じった医師は私に謝った。話している間、視線が私と全然合わず、早口で良く動く初老の院長だ。こっちが待つの覚悟で遅くに来てるんですこちらこそ遅い時間にすみません…と心の中で謝った(現実には、「あ…いえ…」としか言えない小心者)。医者が謝ると途端に印象が良くなるのなんでだろう。

カルテに貼られた問診票を見た医者は、「あーーー、残念だったねぇ。私も家内が2回流産しててねぇ・・・残念だったねぇ」と言い、今後の見通しを早口で説明し、内診して子宮はきれいだねと見せてくれたのち、最後に「うん、前回は残念だったけど、これから頑張ろうね」と言って締め括った。

「頑張る」という言葉は難しいなと常々思っていて、「頑張る」と気合い入れても具体的にどうすればいいかわからないよなとか、「頑張ってます」とだけ言われてそれ以上突っ込めないと面倒だなとか、「頑張ってね」と伝えた相手がもうこんなに頑張ってるのに!と思ったりしてもいけないなとか、余計なことを考えてしまうのだけど、今回「頑張ろうね」と言われてみて、私自身がなんとかやっていこうと思い立ったときに、サポートされるであろう相手から言われる「頑張ろうね」は、なかなかグッとくるものだなと知った。

頑張ろうと思う。

 

来院から2時間で会計まで終了した。

 

ちなみに2回目の診察

少し早めに行ったおかげか、初回より待ち時間は少なかった。

でも、呼ばれてすぐに「内診台でお待ちくださーい」と看護師に言われ、ズボンとパンツを脱いで内診台に座って待つこと5分。

顔を合わせて診察する前に股を診る、ということに驚愕したし面白かった。

引越し先で新しい歯医者に初めて行った時、口の周りに全部布がかけられて治療され、「私はここでは人じゃない、歯だ…」と自分に言い聞かせたことを思い出した。

今回は、人としてよりも先に、お股として診てもらうのだ。なかなかすごい世界に来たのかもしれない。

もちろんそのあとにちゃんと人として話がされ、タイミングを指示されて終了した。

 

今のところ

今回のタイミングで終わっちゃうといいなと期待したが、そううまくはいかず、受診1周期目はやっぱりトイレで経血と再会した。

まあ、頑張ろうと思う。