ある日、森の中

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「カラマーゾフの兄弟」を読んだ:読み終えたんだよとにかく

生まれて初めて、ドストエフスキーの本を読んでみた。長編小説「カラマーゾフの兄弟」。最近出た新しい訳ではなく、新潮文庫の訳で表紙にドストエフスキーの顔がドーンとでているやつ。渋い顔で髭がすごい。

 

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もともと夫の持ち物で、ずっとうちにあるのは知っていたけど読んだことはなく、持っている夫本人も高校生の時に読んだらかっこいいなと思って買っただけで全く読んだことがないとのことだった。なんでだったか手にとり、読み始めて、4ヶ月かかってなんとか読み終えた。長かった。合計1500ページ。

12月にはNHKの「100分de名著」が「カラマーゾフの兄弟」を取り上げていたので(新しい訳の方だけど)、読み終えてから観た。ナイスタイミング。

もう二度と読まないかもしれないので、感想を書いておこうと思う。

 

感想

宗教観やロシアの制度・状況など、よくわからないままにとにかく読み進めてしまった。むしろ、読み進められた、ということに驚く。わからないところはあるにせよ、その勢いとか迫力とか不思議さ不可解さとかは伝わってきて、なにこれどういうこと〜?と随所で思いながらわかるところを拾って読み切った。「100分de名著」では、「物語層」「自伝層」「歴史層」「象徴層」という理解の仕方が提示されていたけれど、私は文字で読める「物語層」の部分、たぶん全体の上澄みだけを掬った感じだ。中学生の頃、晩ご飯の味噌汁をしばらく静かに置いといて上澄みだけを飲むことにハマっていた私にはぴったり。

それでも面白がることができたのは、この救いのなさそうに見えるカラマーゾフ家やその周辺を形作っている個人の信念や支えている宗教観、ダメダメなところ、執着、貪欲さ、怒り、流されやすいところ、衝動的なところ、理性、裏切り、後悔、何を恥と感じるのか、プライド、狂気、ショックと立ち直り、見下す、赦す、信じる、等々のいろんな側面が読めたからではないかと思う。

特に、後半のイワンとスメルジャコフのやりとり、イワンの幻覚とのやりとりは気持ち悪かったし、迫力があった。下記にあらすじを書いてみても思ったけれど、全体の筋としてのつながりは掴めていないのが明らかで、だけど、ひとつずつの場面、キャラクターのやりとり単体を楽しむことができた。

私でも読めた!!

 

感想、以上!!

 

 

あらすじ

全体を一編ずつまとめてみる。多分、「すじ」にはならない。

 

作者の言葉

最初から気弱と見せかけて自信たっぷりな作者の言葉。

〜〜こんな種類の質問を避けられぬのが予見できるからである。

『(略)読者たるわたしが、なぜその男の生涯のさまざまな出来事の詮索に時間を費やさにゃならないんだい?』

最後の質問は一番決定的だ。なぜなら、これに対しては『たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです』としか、答えようがないからである。

この部分は、連載から単行本になる時に追加されたものらしい。本当は小説は2つある、とにおわせているプロローグ。でもドフトエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き終えてから亡くなったそうなので、わからないらしい。

 

第一編 ある家族の歴史

ドミートリィ? ミーチャ? アレクセイ? アリョーシャ? 苗字? 名前? お前は誰? 同一人物なの? と、名前が覚えられないのと本名と愛称が違いすぎて誰が何だかよくわからなかった(寝落ちするまで読んで、次の日続きから読むと誰が何だかわからなくなっていた)のが大変混乱した。アレクセイとアリョーシャはまだわかるとしても、ドミートリィがミーチャって呼ばれるのはなんでなの。

あとフョードルがすごいダメな奴。

 

第二編 場違いな会合

長老の前で父と長男が大喧嘩。

アリョーシャの同僚?のラキーチンがカラマーゾフ家をボロクソに言ってて、それを目の前で聞いていて殴りもしないアリョーシャはいい奴を通り越して心配になる。ドミートリィが暴れん坊を、アリョーシャが聖人君子をそれぞれ分割してもっている感じ。

「ラキーチン」て「チキンラーメン」に似てる。

 

第三編 好色な男たち

スメルジャコフの生まれが壮絶。フョードルがすごいダメな奴。

ドミートリィが乗り込んできてフョードルをぶん殴った。この二人の喧嘩の原因になっている女性グルーシェニカが、ドミートリィの(元?)婚約者カテリーナを見下すところに居合わせたアリョーシャ可哀想。ただ、この辺を読んでいた時は、ドミートリィと父フョードルがなんで喧嘩してるのか、正直、よくわかってなかった。大事なところなのに、よくそれわかってなくて読み進んでいたなと思う。「三千ルーブル」というお金が問題みたいだけどなんだろうーと思いながら、とりあえず進む。

 

第二部

第四編 病的な興奮

突然アリョーシャが子どもに指を噛まれた。そのあと、子どもの親父のところに、カテリーナから頼まれてお金を渡しにいったアリョーシャは、テンションが高くなって調子に乗ってしまい、へりくだり親父にキレられる。アリョーシャが自覚せずに、つい上からものを言ってしまい、でも本人は手伝いたいという一心で、というのがさすがの私にも感じられた。つらい。

 

第五編 プロとコントラ (ラテン語で「肯定と否定」の意味)

イワンの「大審問官」なっが〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

第六編 ロシアの修道僧

アリョーシャのお師匠ゾシマ長老のお話。作中劇?的な。なんの話なのかよくわからなかった。

 

第三部

第七編 アリョーシャ

ゾシマ長老が亡くなって、アリョーシャ覚醒。

 

第八編 ミーチャ

愛するグルーシェニカを奪うための金集めに奔走するドミートリィ。そして、フョードル殺人事件の決定的な場面。

えっ、こんな表現する?! 東野圭吾の小説だってこんなの読んだことないよ!

ここからぶわっと引き込まれて、今までよくわからんと思っていたけれど、急にちゃんと筋がわかるようになった(と思う)。

ドミートリィは血のついた手やら服やらを洗って、突然お金持ちになって食料をごっそり抱えて馬車でグルーシェニカのいるモークロエに飛んでいく。「100分de名著」で解説していたロシア文学者の亀山先生が、ドミートリィが通ったであろう道を車で実際に走ってみた、とすごく嬉しそうに語っていて、ああ、聖地巡礼っていうのは時間も場所も超えて人を幸せにするんだなってほっこりした。

グルーシェニカって目の前の人に調子合わせすぎ八方美人すぎと思うのだけど、だからモテるんだろうか。

 

第九編 予審

ドミートリィがあっという間に捕まって、取り調べられて連行されるところ。

 

第十編 少年たち

アリョーシャの指を噛んだ少年が重病で、意地悪していた他の子たちとアリョーシャが見舞いに行く。場面転換が突然すぎて混乱。ドミートリィは?? 

 

第十一編 兄イワン

やっとタイトルに名前が挙がって取り上げられたと思ったら、可哀想なくらい弱っていたイワン。理性で神様がいるとかいないとか論文まで書いていたのに、幻覚と会話しながら怒り狂う。そのギャップに怖さを感じた。ストーリーは理解できてんだかできてないんだかだったけど、とりあえず、イワンってこんな人じゃなかったのに!と思うくらいには、その印象が私にも刻まれていた。さすが、ドストエフスキー

 

第十二編 誤審

裁判は完全に「リーガルハイ」。古美門研介がいた。堺雅人を配役して読んでた。

語り手の「わたし」が前面に出ていて、誰?? と混乱。前のページを読み返してみたけど特に何もなかった。作者…かなと思ったけど、完全にその裁判を傍聴していたふうに書かれていたのが不思議。

 

エピローグ 

最後も子どもたち。そんな終わり?! 

カラマーゾフ万歳!? どういうこと??

 

 

 

・・・以上、「カラマーゾフの兄弟」を読んだ感想とあらすじでした。

「100分de名著」で、哲学者ウィトゲンシュタインは30回読んだ、という話が出ていたので、哲学者30回で私が1回なら、頑張ったんじゃないかと思う。