ある日、森の中

思ったこと、考えたこと、調べたこと、経験したこと

死産後の生活16:予想外に体外受精に至れなかった

40代に突入して、妊活期間もそろそろ終わりに近づいているじゃないか、と気づいた時、初めて体外受精やってみようと思いたった。

 

子どもが欲しいから、というよりは、10年20年後、何かの拍子に、やっぱりもっと不妊治療をしておけば良かったという後悔が襲ってきた時に、「でもできることは全部やって頑張ったから仕方ないじゃん」と言えるようにしようという消極的な理由だった。体外受精までやって100万円くらい使ってやれることやったよね、と将来の自分に言い訳させてやりたい。とりあえず次の誕生日まで、それから気持ち切り替えて生きていくことにしようと決めた。すでにうまくいかないことを想定しながら取り組み始めるという状態だった。

 

以前、人に教えてもらったクリニックがちょうど説明会を開いていたので申し込み、そのまま受診もすることにした。まちなかの綺麗なクリニックで、少し遠かったけれど夜遅くまで営業していた。最初はいろんな検査をして(と言っても私は血をとられただけだけど)、FSHやらAMHやら測定した。諸々で5万円。

 

そして、やっと始まった自己注射。最初はペンタイプというやつで針は細く短く、思ったほど負担ではなかった。あとクロミッド服用。これを何日かやるだけでまた5万円くらいかかったが、とりあえず注射が大したことなかったので安心した。

そして次の受診。

薬を変える、ということで、ペンタイプではなく本当の注射器を使うことになった。「ペンタイプのあんな細い短い針なら楽勝だぜッ」と油断していた私は、看護師が持ってきた注射器と針の長さに正直ビビった。しかし、40年見栄を張って生きているので、多少のことでは驚いた気持ちは表情に出さず、看護師に教わりながら注射をした。お腹の脂肪を溜めてて良かった。痛みは見た目ほど大したことはなかったし、これまでも採血やインフルもコロナも予防接種の注射してきたわけだし、まあ何とかなるデショという気持ちでまた4万円払った帰り道。

 

突然、涙が溢れまくって止まらなくなった。

 

車で来ていて良かった。いや、もしかしたら電車なら人目があるから泣かなかったのかもしれないけれど、とにかく、一人でよかった…と思うほどに急にめちゃくちゃ泣けた。運転していたのでゆっくり涙を拭ったり鼻をかんだりすることもできず、慣れない道をナビを頼りに走っていたのに、泣きすぎてナビの指示を聞き損ね、道を間違えた。何を泣いているのか全くわからず自分で自分が意味不明だった。やっと家に帰りついてからも、ずーっと泣けてしまって、1日を終えるのが大変だった。夫にすごく心配された。でも別に注射が怖かったとか痛かったとか、そういうことではない。確かに医者は体育会系で圧が強いし、今日の看護師は採血が下手すぎだったけれども、そういう瑣末なことではない気がした。

 

だんだんと落ち着きながら、何が起こったのか考えてみた。はっきりと思い当たることは全然なかったけれども、一つだけ浮かんだことはあった。リアル注射器を初めて使った自己注射の瞬間、なんとなく、薄ぼんやりとだけれど、チラッと一瞬、以前の死産や流産の時の無痛や点滴や採血や麻酔の注射が思い出されたというか、見えたような気がしたのだ。全然明確ではないし、自分でも言っているだけかもという気がしなくもないけれど、あの、産婦人科での悲しくて痛い経験が頭を一瞬掠めた気がした。

そんな話を夫にしたら、そういう経験がフラッシュバックしているのではないか、と言われた。全然実感はわかないが、それが一番しっくりくる説明のように感じた。だからと言って泣き止みもしないし状況は変わらなかったけれど、何か説明は欲しかった。

 

でもまだ悪足掻きをしていて、次の日になったら落ち着いているんじゃないかという希望も持っていた。初めての注射に動揺してびっくりしちゃっただけ、という説だ。だから、自宅でゆったりした中でやれば、実は大したことなかったとわかるかもしれない(夫には、そういう泣きの量ではないと思うけど、と言われた)。

 

ということで翌日、再度チャレンジしたが、見事に同じ結果になった。注射するまでは大した緊張も動揺もなかったが、終わった途端に泣けてしまったのだった。昨日あれだけ大泣きしたので、泣きがクセになっているという可能性もあるけれど、何にせよ、自己注射をするには精神力と胆力が必要ということがわかってしまった。泣きながら続けることはたぶんできるけれど、自己注射だけでなく痛かったりしんどかったりする場面がまだまだあるだろうし、そこまでして続けたいのか・続けられるのか、という選択を迫られてしまった。私の答えは「No」だ。

 

テレビやネットで見る不妊治療の終わりというのは、もっと時間やお金をかけてめちゃくちゃ悩んで諦める、みたいなイメージだった。あるいは、私のように、年齢も高いので期間を区切って短期決戦、とか。だから本当は、何ヶ月かかけて100万円とか注ぎ込んだ時点で「終わり」にするつもりだったのに、こんな形で1ヶ月も経たずに終わることになるとは予想もしていなかった。こんな終わり方もあるんだな。

死産や流産をした人がみんなこうなるのかは知らないし、少なくとも不妊治療を続けている人たちは何かしらの痛みやしんどさを乗り越えたりかわしたりしているのだと思うけれども、私にとってはどうやらこの辺りが限界だったようだ。

 

死産や流産がこんなふうに自分に影響を及ぼしている(かもしれない)ことにも初めて気づいた。だからこそ、最初からずっと消極的だったのかもしれない。

 

ひとまず、「でもできることは全部やって頑張ったから仕方ないじゃん」とは自分に言えるようになった。体外受精をしないことが妊活自体の終わりではないし・・・と諦めの悪いことを言いつつ、区切りはついたので、楽しいことを見つけて生きていこうと思う。姪っ子とか人んちの子どもに課金したりとか。

 

 

 

 

 

死産後の生活15:痔と流産の話

もうだいぶ期間が経ってしまったけれど、年末に流産した。

 

死産から妊活に向き合えずにいた期間が半年ほど、なんとなく気が向いてきたのがそこから半年、思い立って不妊治療クリニックでタイミング&人工授精をやってみたのが半年強、コロナが始まり治療になんだか失望したのも重なって、そのまま自力妊活を断続的に続けていたのが1年半くらいで、流石にそろそろ体外受精か養子縁組か海外移住か検討しないと・・・と思っていた矢先の妊娠。

 

私達にまだこんなポテンシャルが残っていたとは、という驚きが一番だった。

 

産婦人科で子宮外でないことを確認し、2週間後に心拍確認の予約をした。

これから2週間、気にしてもしょうがないし、不安になるだろうし、なんかいろいろ楽しいことをやって考えずに済むように過ごそう…と思っていたら、突然の痔の発症。

 

これまでたまーーに出血はあったけど水分を摂ったらもとに戻ったし、人間ドックの大腸に引っかかって内視鏡検査したら「うーん、ちょっと痔かな」と医者に言われたことはあった。ふーんとしか思わず、自分の体なのにどこか遠い世界のことだと思っていた。

 

痔。

まごうことなき痔主になった。

 

とりあえず、LINEの痔スタンプを買って妹に連打したら、「スタンプよりボラギノール買え」と至極真っ当な返信がきた。

一応まだ妊婦候補だったので、市販薬ではなく産婦人科に行って薬を所望すると、何痔かも聞かれずに20秒で診察が終わって軟膏と薬が出された。やっぱり黄門科にいくべきだったか…と思いながら調剤薬局に行き、薬剤師のお姉さんにイボと軟膏の相談をしてたらめちゃくちゃ笑いがとれた。お姉さん、「長い闘いになると思います」って励ましてくれてありがとう。でも、結局2週間足らずで終わってしまいました。

 

妊婦は痔になりやすいという話はよく聞くけれど、どうやら妊娠後期の話らしいですね。胎児が大きくなってお腹の中のいろいろを圧迫して、その結果、痔になるとか。

つまり、妊娠反応が出たレベル時点での私のこの痔は、すでにあった痔が前面に出てきたということなんですよね。

 

そんなことを調べたりドーナツ座布団買ったりしていたら、妊娠が続いているか不安になるとか涙が止まらないとか、そういう事態には陥らずに2週間を過ごすことはできた。代わりにイボに苦しめられた。

 

そして、心拍確認の日、心拍は確認されなかった。

 

妊娠反応は出たけれども心臓は形成されなかった、というのは、結局、命の形成には至らなかったってことじゃんと考えながらも涙は止まらず、しかし、流産手術の説明は聞かなければならず、よくわからんまま採血されて書類をもらって日程を決めて帰ってきた。

たくさん泣いた。何に泣いているのかよくわからなかった。

ただ、何も考えないようにしようとは思いつつ、

もし妊娠してたら、来月のこの仕事は断らないといけないなとか、

もし妊娠してたら、何月頃から休みだなとか、

そんな周辺のことをイボの合間をぬってやっぱり考えていた。そういう意味では私の中にすでに赤ちゃんの輪郭くらいはうっすらできていたのかもしれない。

 

あと、以前の死産のこともまた思い出されたことがしんどかった。なんなら今回の流産に悲しんでいるのか、以前の死産の思い出し泣きなのか、区別がつかなかった。もうすでに3年以上経って、なんとか元気になったゼと思って暮らしているけれど、いとも簡単に引き戻されてしまった。

仕事上、乳幼児や親子連れに会うことがときどきあって、微笑ましく眺められるようになっていたというのに、久しぶりに勘弁してくれという気持ちにもなった。

 

ただの痔主になったなぁと思っていたら、痔はいつの間にか治っていた。

流産手術も終わって、あの痔だけが私が妊娠していた印だったのに…とまで思えるほど良いものでもないので、さっさと治ってくれてよかったけれど、もしまた妊娠できたら再発するんだろうか。

私はまた妊娠するんだろうか。

妊娠したとして継続するんだろうか。

不妊の上、流産と死産に怯えつつ、痔までついてくるなんて、ますます妊娠出産の喜びから遠のいた。

 

 

 

 

死産後の生活14:3年が経ち、ケーキを4個食べた

世界は2つの時期に分けることができる。
赤ちゃんが生きていた期間と死んだ後の期間だ。

 

夏の終わりは、我が子が生きていた期間が終わってしまう瞬間を含む季節で、命日のあとに誕生日がやってくる1週間だ。でも不思議なもので、仕事中などはそのことが全然頭になく、打ち合わせの予定などできる限り命日や誕生日には入れたくない、と家では思っているのに、仕事になるとすっかり忘れて用事を入れてきてしまう。帰ってきてから「しまった、別にこの日でなくてもよかったのに・・」と思い出す。仕事中は完全に心と頭が乖離している。なんて薄情なんだ私はとつい思ってしまいそうになるけれど、これは日常生活をなんとか送るための心の働きらしい。人間の心は不思議だ。平気のヘイチャラになってきた気がしていたが、やっぱり心を殺して、歯を食いしばっているところがまだあるようだ。

 

誕生日当日。

夫が遅い日なので、去年のようにケーキは買ってこられなかろうと思い、仕事帰りにショッピングセンターのケーキ屋に寄った。誕生日なので、本来ならケーキは3個もしくはホールであるべきなんだろうけど、実際食べるのは大人2人なんだし、もう夜も遅いし…と超現実的に考えて、「3」のロウソクとケーキを一切れ買った。シャインマスカットのケーキもイチジクのケーキも残念ながら売り切れだった。

ところが、遅いと言いつついつもよりは早く帰ってきた夫、なんとケーキを買ってきていた。しかもちゃんと3個。同じ形の「3」のロウソク。これでは我が子は33歳だ。

夫曰く、なんとか職場の近くでまだやっているカフェ併設のケーキ屋を見つけ、駆け込んで買ってきたとのこと。ケーキ3つと「3」のロウソクを買ったら、店員に話しかけられたそうで、

 

「お子さんがいらっしゃるんですかぁ?」(笑顔)

「はい」(真顔)

「3歳ですか?」(笑顔)

「はい」(真顔)

「そうなんですかー。一番可愛いときですよね!」(めちゃくちゃ笑顔)

「はい」(真顔)

 

という会話を繰り広げてきたらしい。私だったら絶対泣いてる。

 

夫は他の人と、赤ちゃんが生まれたとか誕生日という内容で話をしたことがないらしい。確かに、私も仲の良い友達にしか、誕生日としては話していない。他の人からしたら、赤ちゃんは亡くなった、という理解だろう(いや正しいんだけど)。

生きていたし、確かに産まれてきたんだよ! 亡くなってたけど!

3年経って、誰にぶつけたらいいのやらよくわからない感情がまだある。

産休に入った職場の後輩よ、出産報告を職場全体のメールで送ってくるのはやめてほしかった。

泣くことは減った。というかほぼない。

どちらかというと普段は、まだ妊娠しないことにも困っている。

実は元々妊娠しづらい体質で、たまたま奇跡の1回が3年前に来たっていうことだったのか・・・?

そろそろ養子や里親という選択肢を真剣に考えてみよう、という話をしながら、2人で3年目のケーキ4個を食べた。

 

 

 

 

 

5月7日の夕方から夜にかけての話

 

「昨日、産まれました」

と、連絡が来た。

 

もう20年近い付き合いの友人である。仕事中にスマホをチェックして、スマホを見る手が一瞬止まり、仕事の手も同時に止まっている。

予期せぬ報告に「ゥワッホ」となった。声に出さなくてよかった。予告するわけにはいかないだろうけども。いや、もともと、今月が予定だということは聞いていた。でも何日頃なのかまでは聞いていなかった。まあ、月の半ばを過ぎて、そろそろかな…大丈夫かな…と一人ドキドキするよりは、月初めにドカンと撃ち抜いていただいてよかったのかもしれない。

 

3人目かー。名前はまだ考え中なんだね。なるほど。

こういうときはとにかくすぐに返信するに限る。既読後に時間が経ちすぎると、時間が経った分、何かを上乗せして送らないといけないような気になってしまうから。いやまあ向こうはそれどころではないだろうから、完全に私の気持ちの問題だけれども。

返信をする。日常で感情を殺し心を無にする鍛錬を繰り返し、この2年半でずいぶん上達した。「おめでとう」「体を大事にね!」あとなんか可愛げなスタンプ。この瞬間、私の脳は指先にあった。任務完了。

 

よしよし、よくやった。おめでたいのは本当だしね。

仕事終わり。時間もちょうど。帰ろう。こんな日は仕事しててもしょうがない。

 

それにしても、事前に「無事に産まれたら教えてほしいけれども赤ん坊の写真は送らないでほしい」と頼んでおいてよかった。そして「おっけー」と快諾してくれる相手でよかった。何せこちとら夕方6時台の地方ニュースに不意に流れるどこの誰かも知らない赤ん坊コーナーから未だにパンチを喰らってるんである。ほらほら、今帰ってきて何気なくつけたテレビから垂れ流されるこれ。なんだかんだ鍛錬がまだ足りない。産まれたなんて超個人情報をローカルとはいえテレビに晒していいのかよ?!と脆弱な悪態をついてチャンネルを変えるしかなす術がない。 

 

無事かどうかは知りたい。しかし、赤ん坊は見たくない。

この葛藤、長く続きそう。でも多分写真添付がないだけでだいぶマシ。死産経験者ライフハック認定。

 

・・・しかし、やはり来るこの感情。

「彼女には産まれるのに、どうして私には・・・」

死産に加えて最近は不妊も重なってるので、こう来ることは想定内。もう答えは準備してある。いいか、よく聞け、自分。

「どこかの動物園ではカピバラの赤ちゃんが無事に産まれているのに、どうして私には産まれないのか、というのと同じだ。冷静になれ。気休めなのもわかってるけども」

 

・・・逆に悲しくなってきた。

 

 

カピバラはかわいいよね。見たことないけど。

 

 

理性的になりたいけど、感情に勝てない時もある。

 

 

考えても仕方ない。

 

 

 

今日はもう何やってもたぶんダメだ。

 

 

 

 

チェンソーマンでも読んで寝よう。

 

 

 

 

 

ジムに行き始めた(2回目)

2年前、ジムに行き始めたという内容を書いたのだけど、結局数ヶ月でやめた。そもそも運動が好きではないので、やめる可能性はいくらでもあったのだけど、数ヶ月行ったのは頑張ったと思う。

最近、人に教えてもらったけれど、自分に対してテンションの上がる声かけをした方がメンタルにはいいみたいですね。「せっかく行き始めたジムなのに週2も行けず、結局数ヶ月で辞めてしまうなんて根性がないな!」と言うよりは、

「初めてのジム、ちゃんとやり方を教えてもらう機会も作って、とりあえず数ヶ月行ったよね。運動嫌いなのに数ヶ月は続いたし、ちょっとこれは続かないなと思った時に思い切ってやめられるなんて損切りの力があるね! また次に行きたくなったら行こうね!」

と言う方が、精神衛生上、良いに決まっている。そう思うと、子ども〜若者の頃にありがちな、続かないと怒られ、失敗すると咎められ、できないと呆れられるという環境は本当に害しかない。意味なくほめろとは言わないから、とりあえず、今やったところはここまでだったね、でいいのではないかと思う。

そういうことで、私は、2年前に数ヶ月・週1未満でジムに通った自分を全力で肯定し、人生2回目のジム通いにチャレンジすることにした。コロナの1年間が過ぎ、在宅勤務とパソコン仕事が大幅に増えて、運動不足も甚だしく、階段を3階まで上ると息が切れるようになって、まずいなと思ったのがきっかけだった。今度は家の近くに新しくできた24時間ジムだ。なんでも家から近いって素晴らしい。感染もちょっとだけ心配なので、滞在時間そのものを短くしている。その分頻繁に通いたい…と最初の目標はいつも通り高いのだけど、週1でも行けたら万々歳とも言い聞かせている。てくてく歩いて行って、15分ほど筋トレして、すぐに帰ってくる。マシンの使い方は、1回目のジム通いのスタートにパーソナルトレーナーの人に教えてもらったことを覚えていた。完璧。感染対策を気にしたけれど、駅前とは言え、地方だからか、感染を気にしているのか、いつ行っても人がほとんどいない。私がまた行かなくなるのと、このジムが潰れるのとどっちが先になるだろうかと心配になる。まあ、その程度には続けられるといいなと思っている。

 

 

 

クリスマスにドーナツを3個ではなく2個買った話

亡くなった我が子のことをどれだけ思っていても、結局、思いだけを強く残すというのは難しい。

 

クリスマスにはケーキを食べることがあると思うけれど、私はケーキを予約する余裕がなかったし、ケーキ屋は見るからに駐車場が混んでいて入れそうな気がしなかったし、コンビニのケーキを食べる気分でもなかったので、ドーナツを買って帰ることにした。なぜケーキを食べるのかもよくわかっていないのだから、なんか甘いもの、を食べるということでいいだろう、という感じ。

本屋に寄った後、ドーナツ屋に行った。普段のドーナツだけでなく、クリスマスバージョンのドーナツ(サンタやツリーの柄の描かれたドーナツ)もあって、それまでクリスマスらしさなど全くなく仕事の疲れを肩に乗せて歩いていた私も少し気分が高揚した。私の前に大量のドーナツを選んでいた思春期くらいの娘とその母親らしき二人組の楽しそうな雰囲気にも少し影響されたのかもしれない。

「ただいま、3個お買い上げで割引になりますが、どうされますかぁ?」

ドーナツを2個選んだところで店員にそう声をかけられ、私は、割引になるといっても結局3個買った方が値段はかかる訳だし、今日も夜遅くなるだろうからこの年で食べられる量には限界があるし・・・と瞬時に判断して、3個目は買わないことにして、お金を払って店を出た。寒いし、早く家に帰ろう。

 

この辺りで、冒頭に戻る。

なんと合理的に「2人分」のドーナツを買ってしまったのか、と自分の行動にショックを受けながら帰るハメになった。

我が子のことは忘れていないし、写真を見れば悲しいし、夕方のニュースなどや市の広報誌の赤ちゃん紹介コーナーは直視できないけれど、でも、やっぱり、私の家には3人はおらず、外出すると意識することは難しく、「3個で割引」とヒントをもらっても3人目のことはちらりとも頭を掠めもせず、反射的に2人分のことだけ考えて帰ってきてしまうんだなぁ〜〜〜ハァ〜〜〜〜、とため息が出た。

 

悲しみは少しずつ薄まっていくとわかっている。というか、そうでないと日常生活が送れない。日頃、考えることが少なくなっても存在自体が私の血肉になっているからだよねと思ってもいる。おりんも変わらずいい音を鳴らす。

 

一方で、新しい楽しみと、私の死産を知らない友達が増え、日々は結構楽しくやっている。この前、久しぶりに会った仕事関係者に「出産されたんですよね? おめでとうございました。遅くなりまして」と声をかけられて、久々に不意打ちをくらったけれど、それ以上は発展しなかったし、個人的な話をする間柄でもないので(あと仕事の話にすぐ移ったので)、「ええ、まあ、はい」と返してしまった。1年前だったら、違う反応をしていたかもしれない。こういうことの積み重ねが、今回のドーナツ2個に繋がったのかなと思う。かと言って、今の生活や対応の仕方が間違っているかと問うてみても、そんなことはないだろう、と思う。

 

それでも、赤ちゃんがいなくても生活できてしまう自分を感じるとそれはそれで悲しい。

 

 

どうすればいいんだろう・・・とよくわからないまま、年末年始。

今年は実家にも帰れないし、3人でゆっくり過ごそう。

 

 

 

 

死産後の生活13:2年越しの後悔の羅列

2年が経ってしまった。ハッピーバースデー、我が子。

ついこの間のことのような気もするし、ずっと昔のことのような、なんなら妊娠や死産なんて本当にありましたっけ?という感じもある。自分の中で、未だにどのように位置づければよいのかよくわからない。

今年も去年と同じく、命日が先に来て、その3日後に誕生日を迎えた。一方、今年は去年よりも気分が落ち込み、悲しい気持ち・重い身体感覚でこの怒涛の我が子ウィークを過ごしている。モヤモヤ、うじうじとしているいくつかの「後悔」。これまでも考えてこなかったわけではないけれど、今週はひどい。吐き出しておこうと思う。

 

今年はとても暑い。この暑さが2年前に大きなお腹を抱えて、暑い…しんどい…と思いながら歩いていたことを思い出せる。暑さっていうのは体全体で人の記憶や感覚を呼び起こすものなのか。当時も今も通勤に使っている横断歩道を歩くだけで、毎日暑くてしんどかったことを思い出している。それなのに胎動がどんな感じだったのかは思い出せない。自分のことだけかよ…と呆れる。

検診では問題なしと毎回言われていたけれど、行くたびに胎児の体のサイズが基準の週数より小さいとは言われていた。亡くなる直前の検診ではだいたい2週間分くらい小さいということだった。もっとご飯をたくさん食べれば良かったのかな、と思う。お腹が大きくなってきた頃の妊婦ってご飯をたくさん食べるイメージだったけれど、思い返すと、私はそんなにたくさん食べていなかった。というかいつも通りだった。中にもう一人いるのに食事はいつもと同じで良いわけがない。

新幹線や車で出張にも行っていた。ああいうのもやめればよかったのかな、と思う。別に軽んじていたわけではないし、それまでの自分の仕事や出張からすると減らしてはいたから、体を大事にしていたつもりはあった。でも、さあもう産休は目前だ!という人間が長距離移動するのはやっぱりおかしかったのかもしれない。救いは、夫に長距離移動が良くなかったのかなと呟いたら、それで何かが起こっているならもっと移動していた前の時期に何か起こっているはずだからそれは関係ないよと言ってくれたことだ。救いというか、自分に言い聞かせて生きている。

お腹や胎動に対して撫でたり話しかけたりすることをあまりやっていなかったと思う。話しかけてはもちろんいたけれど、どうしても仕事しているときは意識を切り替えないと集中できなかったり、なんとなくモードが違ったりして、「赤ちゃん! 楽しみ! 胎教! もうすぐ会えるね〜!!」みたいな語りかけをじゅうぶんにしてこなかった。産休に入ったら存分に話しかけ、準備をしようと思っていたら、産休直前にいなくなってしまった。もう今は会えない人との思い出…という経験が人生で多いわけではないけれど、なんとなくそういう思い出が強かったり多かったりするほどつらいのかな、と思っていた。でも、今振り返ると、思い出せることがあまりない、というのもそれはそれでつらいものだなと思う。かと言って、めっちゃくちゃ楽しみにしてスタイや服を買ったり名前の候補をノートに書き連ねたりたくさん話しかけたりしていたら、そのギャップもかなり苦しそう。どちらがいいのかはよくわからない。でも、今のところ、思い出を作りたい人とは思う存分、話して関わっておいた方がいいな、と感じている。

 

2年経って、日常生活は普通に送れているし、そんなに意識せずに暮らしていて、少しずつ前向きになっていたつもりだけど、たくさんの後悔がぐるぐると渦巻きながら「消えたい…」と思うほどに落ち込むことがまだあるんだということに驚いた。Anniversary effect、こわい。

気持ちには波がある、とわかっているから今は無理をしないでおく。

 

ハッピーバースデー、我が子。

もし目を開けて、喋ったり動いたりしていたら、どんなふうに成長していたのかなぁ。自分の想像力の乏しさが残念だ。